霜月の夕暮れ(32)

夫は20日の月曜日から出勤して行った。朝食の後片付けをして、腕時計を見ると9時半だった。日本だと夜10時半のはずである。マンションの電話は会社経費となっていた。東京本社と連絡する事も多いのだろう。私用ではあったが埼玉の川口に電話を入れてみた。妹の静子が直ぐ電話に出た。
「もし、もし、私…」
「あら、お姉さん。ブラジルからなの?そっちは今何時!…」
「午前9時半よ、それよりお母さんの調子はどう?」
「別にどうって事はないわよ。普通に会話もしているし、ただ『伸枝は近頃は来ないね』と、愚痴ってはいるけれど…」
「そう言われても…夫としばらくブラジルに行く用事があるからって何度も私の口から説明したのに、忘れているのかしら…!」
「別に忘れているって訳じゃあなくて、ただ寂しがっているだけじゃあない」
「それなら、良いんだけど。あんた、時々はお母さんの薬袋を覗いて薬の飲み忘れがないか、チェックしてみてよ!」
「そんな事もするの、お姉さんは相変わらず神経質なのね。地球の裏側に行っても薬の事まで気になるんだ。はい、はい、分かりましたよ」
この何事にも鷹揚な妹に、何処まで母を任せられるか心配でならない。しかし、ブラジルまで来て一人やきもきしても仕方がない。
「また、連絡するから…お母さんに何かあったら教えてね!」
「大丈夫よ、それよりブラジルってどんな所、やっぱり日系人が多いの。言葉は通じるの?」
「日系人が多いのは確かだけど、言葉はポルトガル語が公用語だから大変ね!」
「そうなんだ、ポルトガル語じゃあ、チンプンカンプンだね。夜も遅くなって来たし、国際電話じゃあ料金も大変でしょう。また、電話ちょうだい。じゃあね…」と言って、
静子から電話を切った。時計の針は10時を回っていた。さあ、家の後片付けをしたら伸枝も取材活動を開始しなければ、1ヶ月なんて直ぐに経ってしまう。
取材の一歩は日系人村に行ってみるしかない。そこはサンパウロから600km離れたアリアンサ地区にあり、弓場農場と呼ばれている。日帰りでは、とても無理な距離だ。
さて、どうしたものかと考えていた折に夫の俊治が仕事始めとして5月23日(木曜)からCarajas(カラジャス)鉱、Itabira(イタビラ)鉱山への視察見学の為に10日程出かける事となった。
伸枝にとってはアリアンサ地区に出かける絶好のチャンスであった。夫の許可を得て、俊治を送り出した翌24日から伸枝も日系人村へと取材旅行に出た。
その弓場農場内では、ここが本当にブラジルであるのかと思うくらいに古き日本の風習が生きていた。もちろん言葉も日本語のみが通用している。生活も自給自足を旨としていた。
1歳~95歳まで26戸88名の仲間達が暮らし、サンパウロからだいぶ離れた田舎にある。強引な経済的成長を遂げてきたブラジルで、変動的な社会環境や不安定な景気に振り回されることなく、様々な生い立ちの日本人が仲良く衣食住を分かち合い、土に親しみ、バレエや音楽で自己表現をして暮らす芸術村のような所であった。
ここを訪れた多くの日本人旅行者がここを離れられず、日本に帰ってもまたやって来たり、中にはここに住み込んで農場の一員になってしまったケースも多いと聞かされ、伸枝は母や妹に思いを馳せて「人間の幸福とは何か」を考えずにはいられなかった。
日本には少なくなってきた古き良き助け合いの精神が残っていたのである。
次回に続く
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