霜月の夕暮れ(34)

伸枝は気が急くのか少し早口になり、
「それで相手の小学生はどうしたの?」
と、畳み掛ける様に尋ねた。
「スーパーの人の話では小学4年の男の子が左角から自転車で飛び出して来たらしいのよ。お母さんには直接は接触していないみたいなの…それでも衝突直前で急ブレーキをかけたのでお母さんが驚いて、そのまま転んでしまったらしいのよ。相手の男の子は、おばあさんが勝手に転んだと言い張ってるわ」
と、静子もやや興奮気味に答えた。
伸枝は溜め息まじりに、
「相手が小学生では喧嘩にもならないわね。それで、お母さんの様子はどんな感じ…」
「それが急に元気がなくなって食欲も落ちているのよ。病院では点滴で何とか栄養補給しているから大丈夫だとは言ってはくれているんだけど…それとお姉さん、少し言いにくいのだけど、お母さんは個室に入っているのよ。そこしか部屋が空いていなかったの…」
「その個室料は幾らなの?」
伸枝はやや忌ま忌まし気に尋ねた。
「1日に1万5千円もするのよ。悪いけど私じゃあ、とても払い切れないわ!
それでブラジルに電報を送ったんだけど未だ届いていない?」
昨夜サンパウロに戻って来たばかりなので電報には気が付かなかった。確かに静子の家庭では1万5千円の室料差額を負担するのは厳しいかもしれない。
「分かったわ、ATMで50万円だけ送金するから数日で届くと思うけど、取り敢えずそれで何とかしておいて」
「助かるわ、それで何とか出来ます…」
電話を置いて、伸枝は弓場農場での感動がすっかり冷めている自分に気付いた。
それにしても夫が戻るまでは勝手に一人で日本に帰る訳にも行かない。取材記事にしても弓場農場の話だけでは編集長に理解が得られそうにもない。ブラジルに住む著名な日系人の何人かにはインタビューも申し入れたいし、あれこれ悩む事が多かった。日本にいる母の事を思うと直ぐにでも飛んで帰りたいし…
夫が帰って来るまでの数日間はサンパウロ日本文化センター図書館に通って資料集めをした。日本語での図書が多いので楽だ。
ともかく夫が帰るまでに出来る限りの取材記事をまとめなければと、心は焦るばかりだ。それでも日系移民の歴史から紐解き少しずつ記事も出来だした。何と言っても、この図書館での資料集めが大きな支えになっていた。
20世紀初頭からブラジル移住が始まったが、明治より日本人の海外移住先はアメリカ合衆国が主であった。しかしアメリカで人種差別としての黄禍論が高まり、直接的な移民法改正を避けるため、日米紳士協定が締結され日本人移民の渡航は自粛された。
それでも日本国内の余剰農民は多く、海外移住先を見つけることが急がれ、日本政府は労働力不足に悩むブラジル政府と移住交渉を行い、日本人移民の入植が許可されたのがブラジル移民の始まりである。ブラジルはコーヒー景気に沸きイタリア人移民導入に積極的であったが、あまりに過酷な環境であったためイタリア政府が自国民の渡航自粛を行い、不足する農園労働力を補う形で日本人の入植が進んだ。当初はブラジル政府が家族移住であれば渡航費全額負担するなどの厚遇を行い、のちには日本政府が補助するなどして、1930年代には毎年2万人がブラジルに渡航した。
戦後も1950~60年にブラジル移住ブームがあり、農業移民として最盛期は年間7千人弱が渡航したが、日本の高度成長による国内労働力不足で移住ブームは終焉し、国際協力事業団も海外移住事業をやめた。
次回に続く
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