霜月の夕暮れ(36)

伸枝はさらに声かけを続けた。
「お母さん、私よ、私…伸枝よ⁈」
と、吉子の手を握った。それでも母の反応は鈍かった。そこに巡回のナースがやって来た。
「え~と、あなたは?」
と、不審気に問われた。無理もない。この病院に面会に来るのは初めてである。
「申し遅れました。吉子の娘の伸枝と申します。時々見舞いに来るのは、私の妹です。私は1ヶ月ほど海外に出張に出かけていましたので見舞いに来るのが遅くなって申し訳ありませんでした」
伸枝は有りのままに話して詫びた。ナースは軽く笑みを返して、
「そうですか、事情はよく分かりました。山崎さんも久しぶりに娘さんとお会い出来てさぞ満足でしょう」
伸枝は不安気に、
「ところが、そうでもないんです。私が誰だか分からないみたいなんです。出来ましたら、担当の先生とお話しがしたいのですが可能でしょうか?」
「分かりました、担当医を探して来ますので、しばらくお待ち下さい」
しばらくして50才代と思われる医師が面談に応じてくれた。
「先生、母の病状は如何でしょうか?…確か6月3日に手術をしたと妹から聞かされていたのですが、退院の予定は何時頃になりますでしょうか?」
医師は淡々と、
「手術の経過は極めて順調です。食欲も良好ですから退院は何時でも可能です」
「歩く事は大丈夫ですか?」
「ええ、杖を使ってなら大丈夫ですよ」
「有難うございます。ところで今、お薬は何か飲んでいるのでしょうか?」
「手術後5日程は痛み止めを飲んでいましたが、今は何も飲んでいません」
「妹が持参薬をお届けしていませんでしたか?」
医師はナースの方を振り返って、
「何か持参薬はあったっけ?」
と、聞き返したが…ナースは短く、
「持って来られた薬は何もありませんでした」
と、答えるのみだった。伸枝はうな垂れて…
「分かりました。ところで先生、母は少し認知症の傾向が出ているのでしょうか?」
「確か74才でしたね、大腿骨の骨折が一つのきっかけになって認知症になるケースが多いですね。お母さんも多分にその傾向が出ていますので少しでも早く退院なさる事ですね」
と、医師は淡々と説明した。
「明日にでも退院は可能でしょうか?」
「もちろん、構いませんよ」
「それでは勝手を申し上げてすいませんが、明日の午後2時に退院をお願い出来ますか?」
「明日の午後2時ですね、ではその様に手続きを取っておきましょう」
「先生、色々と有難うございます。では、お言葉に甘えて明日退院とさせて頂きます」
そう言って伸枝は医師に軽く会釈をし、母の病室に戻った。
「お母さん、明日退院となったから一緒に田端の実家に帰りましようね」
「退院…?」
と聞いたのみで、後は無表情だった。
母の認知症状は明らかに悪くなっている。恐らく妹もほとんど見舞いに来ていないに違いない。整形外科の病院で話し相手もなく、殆んど放って置かれたのだろう。この母の無表情な態度が、それを物語っている様な気がしてならない。ともかく明日は何としても家に連れて帰ろう。もう誰にも頼れない、母の認知症は自分自身で正面から立ち向かうしかない。
次回に続く
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