霜月の夕暮れ(37)

6月18日午後2時半、何とかタクシーに乗り込んで田端の実家に帰る。手術した右脚の動きは思ったより良かった。先ず母をソファに座らせて入院中の小荷物を片付ける。箪笥の引き出しにはアリセプトの散薬が多く飲み残されていた。あれ程頼んだのに、やっぱり妹は母に薬を飲ませてはくれなかった。
妹は母が認知症などと最初から考えていないのだから、薬の重要性なんか思ってもいないのだろう。文句を言えば喧嘩になるだけだ。後片付けをして母にお茶を入れる。
「どうお母さん、久しぶりの我が家は良いでしょう」
「うん、家は良い!」
と言って、吉子は急に泣き出した。伸枝も妙に湿っぽい感じになって、
「そうだよね、自分の家が一番良いよね」と、
母の手を撫でながら相槌を打った。
伸枝の温もりを思い出すかの様に吉子は
「伸枝、伸枝…」
と繰り返しながら、その手を自分の頬に持って行った。幼な子が、その母の手の温もりを求めるかの様に…
今や、伸枝が吉子の母親だった。子供のいない伸枝にとって、吉子は最も愛すべき肉親であった。ブラジルで目にした「弓場農場」での優しき支え合いの光景が思い出された。雑誌記者の仕事と母の介護をどの様に両立させるかが、今の彼女にとっては最大の課題となっていた。これまでの様に課長職を勤め上げるのは、どう考えても無理であった。それでは、どうすれば良いのか?
結論としてはフリーの雑誌記者になるしかないだろう。スクープを探し出しては、それを出版社に売りつける。
ともかく出来る限り母のそばに居て彼女の心の支えになるしかないと考えた。
そんな結論から会社には手紙を出した。
これまでのブラジル取材旅行の報告書と、課長職辞退届け、さらに長期介護休暇の申請、場合によっては正式な退職の上でフリー記者への編入伺いも同時に願い出た。
ブラジル取材報告書はA4コピー用紙50枚に及ぶもので、取材写真120枚も添えた。移民の歴史から始まり、大正から昭和30年代ぐらいまでのコーヒー栽培での奴隷にも似た過酷な生活、「弓場農場」での美しき日系人たち、その後の各界での日系人成功物語とコピー用紙50枚では足りないくらいの取材内容であった。
この報告書に、編集長は非常に感動し直ぐに「ブラジル特集」を組んで雑誌として売りに出した。この特集は売れに売れ、通常の販売部数の5倍以上となった。これには会社全体が彼女を絶賛した。社長命令で特別賞与として200万円が支給された。そして伸枝の進退伺いには、「待った」がかかった。これ程に優秀な雑誌記者を、フリーにして良いものか会社内部でも意見が大きく分かれたのだ。専属で、もっと社会の多くが注目する取材記事を書かせたら良いのではないかとの意見も多かったのだ。
ともかく問題は保留にされ、伸枝の介護休暇だけが認められる形となった。
会社の意向はそれとして、母の介護に専念出来る事が何より嬉しかった。それに特別賞与200万円には心から感謝した。夫には事のあらましを手紙で書いた。10日程で夫からは返事が来た。
「伸枝の取材報告書が大きな価値あるものとして認められ、自分も非常に嬉しい。お母さんの介護に専念する事も賛成である。ただ個人的な愚痴となるが鉄鉱石の事業開発には、かなり困難を極めている。しかし、伸枝に負けない様に自分も頑張るつもりだ」
と書かれてあるのが少しばかり気になったが、夫の事だからやり遂げるに違いないと信じていた。
次回に続く
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