霜月の夕暮れ(41)

伸枝が図書館から借りた「認知症」の本にはまた別の事が書かれてあった。
「アメリカではアルツハイマー型認知症と学歴に有意な相関関係が見られる」
との学術論文である。基本的に人間の思考形態は言葉の使用方法が根幹をなしている。学歴の高い者ほど語彙が豊かである傾向が強い。語彙が多いほど思考形態に幅が出来やすい。逆に語彙が少ないと思考回路も狭まると云う理論である。
この理論が100%正しいと、伸枝は考えていないが、多少の意味づけは持っているかもしれないと思ったりもする。しかし、一つの理論で全てが語れる訳ではない。
現に学歴が低くても牧野 富太郎(日本の植物学者)の様に小学校中退で東京帝国大学の教授になった様な傑物もいるし、政治家で言えば田中角栄の様に高等小学校卒業で総理大臣(第64-65代 内閣総理大臣)にまでなった人だっているのだ。
だから一概に学歴だけで価値感を統一化出来るものではない。理論づけの基礎は統計学的な推論による事が多い。しかし、この統計学も時には作為的な操作が可能である。企業の誇大広告などが、これに類似している。小難しい話は、そろそろ止めにしよう。
吉子と伸枝の2日間の温泉旅行は、予想以上に、吉子を喜ばせた。毎日2回は温泉に入り、美味しい日本料理に舌鼓(したつづみ)を打(う)っ て満足極まりない生活である。
「お母さん、たまには温泉旅行も良いわね!…でも明日は帰らなければ」と、
伸枝が言い出すと、吉子は…
「帰りたくない…!」
と、明確に反論して来た。言葉がより鮮明になっている。伸枝は喜びと驚きの狭間(はざま)で当惑した。お金の方はクレジットカードで何とかなるにしても、このベストシーズンに突然の延泊が可能であるのか?
その自信はなかったが、出来るなら母の我が儘を叶えて上げたかった。
ともかく、部屋から帳場に電話をする。
「もし、もし、17号室の山口ですが、今のお部屋でもう1日延泊が可能でしょうか?」
と尋ねた。帳場の返事は…
「しばらく、お待ち下さい。
え~と、17号室ですね。あいにくですが、他のお客さまの予約が入っています。少々お待ち頂けますか、あの~32号室の貴賓室でしたらキャンセルが出ましたので、ご用意は出来ますが…」と言われ、思わず母の顔を見た。そして一度電話を置いた。
「お母さん、ここより高い貴賓室だったら空いているらしいけど、どうします?」
「それで良い」と、
吉子は無造作に答えた。
「それで良い」と言われても、
一体幾らかかるのやら、伸枝は思い悩んだ。伸枝のそんな迷いも分からないのか、吉子はニコニコと笑っている。そんな母の笑顔に誘い込まれ延泊する事にした。それでも伸枝は帳場に一応は確認を入れずにはいられなかった。
「すいません、先ほどの山口ですが、その貴賓室の宿泊費はお幾らになるのでしょうか?」
「はい、一泊二食でお一人様が
10万円になります」
との答えである。すると、母と二人で20万円か?…う~ん、少し唸ってしまう金額だ!
その事を吉子に説明するが一向に動ずる気配は見られない。何か破れかぶれな思いで、帳場には延泊をお願いした。
次回に続く
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