霜月の夕暮れ(42)

翌日は、その貴賓室に移る。貴賓室と言われるだけあって10畳の和室が3室もある。一つが寝室で二つ目が居間、そして食事をする部屋と云う造りであろうか。風呂も内風呂と露天風呂の二つがある。今までの部屋から比べると3倍以上もする値段だったが、納得する豪華さだ。
一生に一度ぐらいは、こんな贅沢も良いかと考えた。母は終始ニコニコとご機嫌である。ブラジルで鉄鉱石の開発に努力している夫には申し訳ないとも感じたが、母の笑顔を見ていると何も言えない。
先ずは二人で露天風呂に入る。他人が一切いない空間とは、こんなにも寛げるのか?
「極楽、ごくらく!」
と、吉子が満足気に頷いた。
母がまるで普通に話しているみたいだ。そんな母の言い草に、伸枝は感動とも喜びともつかない思いを抱いた。この箱根に来て吉子は1日ごとに認知機能が改善して行く様だった。快適な刺激が加わり続けると人の認知能力は高まって行く傾向が強いと云う、幾つかの医学的な実例もあるのだが…伸枝にはただ母の喜ぶ顔が見たい為だけの行動であった。
夕食も昨日とは格段の差があった。
刺身のお造り、天ぷらの盛り合わせ、ステーキなどは部屋に板前が直接に来て焼いて行くと云うサービス振りである。正に山海の珍味そのものだ。
まるで何処かのお大尽様になったかの様な気分である。寝具類から部屋の調度品までが拘(こだわ)り抜いていた。
10時には床に就くが、何か寝付かれない。竜宮城にでもいるかの様な違和感と、明日の支払いが少しばかり気になり出していた。隣に寝ている吉子は安らかな寝息をして眠っている。そんな寝息を聞きながら何時しか伸枝も眠りに入っていた。
翌朝はまた贅沢三昧の食事をして11時に旅館を出る。カード精算なので支払い金額の事は考えない様に努めた。途中のサービスエリアで昼食を食べる。700円のラーメンが妙に懐かしかった。2時半には田端の実家に戻る。
「伸枝、有難う」と、
吉子は嬉しそうに礼を述べた。思わぬ散財であったが、母のその言葉だけで気持ちは落ち着いた。メールボックスを覗く。相も変わらず不用なパンフレットの束が山の様に詰め込まれている。こんなパンフレットを一体誰が読むのか、メールボックスを覗く度に何時も考える。人の家のメールボックスをゴミ箱と間違えているのではないのか、時にはそんな苛立たしさを感じる日さえある。
しかし今日は何時もと違っていた。
紙くずの様なメールボックスの中に妹の置き手紙があった。切手が貼られていないので直接に入れておいたに違いない。4日も家を留守にしていたので、そのままメールボックスに入れておくしかなかったのだろう。中くらいの茶封筒に、「お姉さんへ」と書かれていた。相変わらず下手な字である。
「お母さんの事では、お姉さんにばかり負担をかけて申し訳ありません。先日ブラジルから送金頂きました50万円は殆んどが残っています。お母さんの日用雑貨で8万円だけ使わせて頂きました。残り42万円は返します。使った8万円の領収書は、この封筒の中に入れて置きました。本当は直接にお会いして、お金の返却とお礼を述べるべきだと思うのですが、この様な形で返す非礼をお許し下さい」
と書かれ、茶封筒の中には1万円札42枚が入っていた。
次回に続く
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