霜月の夕暮れ(44)

近くの耳鼻科クリニックであるが評判が良く、説明も丁寧だった。
「先ず味覚異常ではなく、味覚障害と言いますが、原因としては次の様な事が考えられます。
1)味蕾の減少・委縮
味覚は舌や喉の奥の味蕾(みらい)と呼ばれる約9000個の感覚受容体があるのですが、老化とともにこの味蕾は減少・委縮することが分かっており、高齢者の味蕾の数は新生児の3分の1にまで減少するといわれています。よって味が感じにくくなることは生理現象であるともいえます。
2)亜鉛の不足
亜鉛が不足すると味蕾細胞の新陳代謝が起こりにくくなり、味蕾の働きが悪くなります。味蕾は体の中でも新陳代謝の活発な部位であり、亜鉛が不足すると一番に影響をうける場所であると言われています。
3)唾液分泌の低下
加齢や唾液分泌が低下する疾患(シェーグレン症候群など)によって起こります。唾液は、味の成分を溶解して味蕾へ運ぶ役割を果たしているので、味を感じるには唾液が必要不可欠です。
4)舌苔(ぜったい)が多量についている、カンジダ症
舌の上についている苔のような物質、舌苔が厚く大量についていたり、舌がカンジダ症で膜に覆われていたりすると味覚を感じにくくなります。
5)風邪などで鼻がつまっている。
これは誰でも経験があると思いますが、鼻がつまると味が分かりにくくなります。
6)薬の副作用
血圧を下げる薬、抗生剤、抗アレルギー剤や向精神薬などの長期服用によって起こされる可能性があります。これらの薬に含まれる成分と食物中の亜鉛がくっついてしまい、亜鉛が吸収されなくなることにより亜鉛不足となってしまうのです」
などの説明を受け、耳鼻科一般の診察が続いた。これと云う特別な異常は見出されず、口腔ケアの指導とポラプレジンクOD錠(亜鉛が含有)と云う胃薬をもらう。
その指示に従い伸枝は、母の歯磨きには必ず舌の洗浄を心がけた。胃薬も朝夕と一錠づつ服用させた。そんな伸枝の努力が実ってか、1ヶ月もしない間に母の味覚は少しづつ改善して行った。11月に入り、また紅葉の季節となって来た。母の吉子が認知症状を現してから1年の月日が流れていた。
わずか1年であるが、色々な事の多かった年である。吉子の天ぷら火事騒動に始まり、夫とのブラジル行き、弓場農場の感動、母の骨折そして同居生活。
7月に送り届けた「認知症特集」の取材費として先月、会社からは100万円が送金されていた。ブラジルの夫からも毎月生活費が振込まれて来るので吉子との生活に経済的な不自由さはなかった。吉子の年金には手をつけず伸枝が母親を養う形の生活が続いていた。
子供のいない伸枝にとって母親とは、唯一守るべき愛しき存在であった。ともかく母親の認知機能改善に向かって全エネルギーを注いでいた。そんな伸枝の祈る様な介護が母に通じたのか、吉子の生活能力は格段に向上して行った。会話に不自由さもなくなって来た。
「伸枝、今夜はすき焼きにしようか。そこのスーパーで牛肉の特売があるみたいだから…」
と云った調子にまで、言葉は回復していた。
次回に続く
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