霜月の夕暮れ(50)

しかし、そんな伸枝の呼びかけにも答えず吉子は桜の花びらの一片をただ見ていた。そして急に一言、
「たばた…!」
と、口にした。伸枝はそんな母の反応に心が揺れた。
「お母さんは、やっぱり家に帰りたいのだ。そうよね…お家が良いに決まっているわ…!」
そう言いながら、伸枝は一人で目頭を熱くした。だが、現実には難しい問題が幾つもあった。田端の古い実家では車椅子の生活は困難である。家は2階建てで段差も多い。トイレは和式で狭い。母親を実家に退院させるにしても家の大幅な改築が必要となって来る。
出来れば、この病院でリハビリをやって何とか杖歩行にまで改善できないかを願うばかりだ。
母と病室に戻り、ナースステーションに出向き尋ねる。
「すみません、田村の娘ですがリハビリの方はどうなっていますか?」と、
担当ナースが出て来て…
「田村さんは食欲も出て来ましたので昨日から、リハビリはスタートしています」と、
説明してくれた。それを聞いて先ずは一安心。夕食まで母のそばにいて何かと話しかけたが、やはり反応は乏しかった。それでも夕食の全粥だけは、殆んど食べてくれた。それを見届け伸枝は帰路についた。
翌日からは会社に出た。しかし母親の事で度々欠勤している伸枝には、周囲の視線が冷ややかに感じた。何とか皆んなが驚く様な取材記事をものにしなければと心は逸るが、そう特集に出来る題材が何処にでも転がっている訳でもない。仕方なく伸枝は雑用に近い仕事で時間を過ごしていた。
5時過ぎには一人会社を出て、赤羽の病院に向かった。母親は元気そうだったが、何処か焦点の定まらない顔つきである。夕食だけはしっかり食べているので、それだけが救いだった。
この4月(2014年)から消費税が上がり景気は冷えこんで来た。そんな影響も手伝ってか雑誌の売れ行きも芳しくはなかった。その分だけ伸枝の職場での存在感も薄れていた。伸枝の課長としてのかつての栄光は消え去っていた。
ただのパート社員では、他人を「あっ」と言わせるだけの取材記事をものにしなければ、退職勧告も時間の問題となっていた。伸枝は母親の介護と職場環境の変化で精神的に、かなり行き詰まっていた。
唯一の救いはブラジルでの夫の活躍ぶりだ。海外勤務となって一年弱が経ち夫の俊治は支店長から支社長待遇と昇進し、給与もかなり上がって来た。
それに伴い彼女への送金額も増えていた。これは大きな支えである。
伸枝が働かなくても、夫の送金だけで十分な生活が成り立つと云う意義は余りに大きい。しかし、それと雑誌記者としての彼女のプライドとは別の問題であった。さらに介護すべき相手は自分の母親である。夫の送金だけで何もかも賄うのは、やはり気が引ける。母の年金だけでは病院の費用は足りない。父親が遺してくれた2千万円の金があるといっても実家の改築に使ったりすれば、後はどのくらい残だろうか?
あれこれと迷うが、やはり仕事もやりたいし、自分なりの収入も欲しい。
何もかも夫にオンブにダッコでは申し訳ない気がしてならない。これまで結婚してからも育児と子供の闘病生活を除けば、彼女自身が仕事人間だった。経済的理由だけで仕事をしていた訳ではない。仕事そのものが好きなのだ。
次回に続く
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