霜月の夕暮れ(54)

伸枝の更年期症状はホットフラッシュ(のぼせ、ほてり)、発汗などを中心とする自律神経失調症状が強く、部屋の室温の感覚が分からなくなっている。職場では誰よりも暑がったりする事が多い。自宅でも必要以上にエアコンの温度を下げ、母親に風邪を引かせてしまう危険さえある。彼女も十分にその事を意識して、常に室温には配慮していた。精神的にも以前に比べ少し感情的になってしまう自分に気づいたりもしていた。
職場では他人の小さなミスに苛立つ事が多くなって来た。自分自身は感情コントロールをしているつもりなのだが、今までだったら
「この記事の内容、少し変じゃあない」
で済む所が、
「どうして、こんな訳の分からない記事になってしまうの?」
と、つい攻撃的な口調になってしまったりする。パート社員とはいえ伸枝は、かつては課長の立場まで勤め上げた上司なので、勤務歴10年以下の社員は一言も反論が出来ない。
しかし、その分だけ若い社員の間で陰口を囁かれる事が多くなっていた。そんな陰口の一つが時には彼女の耳に入ったりもして、逆に伸枝の精神的ストレスを悪化させてしまう。そんな不安定な気持ちを引きずって家に帰ったりすれば、母親の吉子にも伸枝の心の苛立ちが伝わってしまう。
夕食時も以前の様に楽しい母子のお喋りを楽しみながら、ニコニコと笑顔で食事をする事が少なくなっていた。ひたすら吉子の気持ちをリラックスさせると云う直向(ひたむき)な努力に伸枝は倦(う)んでいたのかもしれない。
食事時に、吉子がおかずをこぼしたり、お茶をひっくり返したりしても以前の伸枝であれば、
「まあ、まあ、お母さん手を滑らせたのね。大丈夫、熱くはなかった?」
と、優しく対応していたのに…
「どうして、そんなに取り散らかすの?…まるで子供みたいでしょう!」
と、言葉に棘が出て来た。母親の心を気遣うよりは、介護に拘束されている自分の切ない感情が先に出てしまうかの様だ。そんな娘の心の変化を吉子なりに微妙に感じ取り、何か気まずい日々となっていった。夫との別居生活も一年以上が過ぎようとしている。雑誌記者としての仕事を十分になし遂げるには夫の目に見えぬ支えが必要であると、今更ながら伸枝は考えずにはいられなかった。日本一国だけでなく、先進国の多くは男女平等の仕事配分を目指している。男は外で仕事をこなし、女は子育てと家事に従事すると云う縮図は旧式の考えとなりつつあるが、それでも良きパートナーの存在は否定出来ない。それやこれやで伸枝は日々心の余裕を失っていった。感情的に隔たりのある母子関係が1ヶ月以上続いた結果、吉子の食欲が落ちて来た。
梅雨も明け切れない7月初旬、気持ちも鬱陶(うっとお)しい夕暮れの6時に伸枝は食事の買物を済ませ家に帰って来た。
「お母さん、ただいま」
と、寝室の吉子に声をかけた。しかし、まるで反応がない。何時もなら、
「あゝ…」とか、
言葉にはならないが、それなりの応答はある。ともかく買物の仕分けをして冷蔵庫に仕舞う物だけは片付け、母の寝室を覗いてみる。何時もと違ってグッタリした感じだ。驚いて、
「お母さん、お母さん…!」
と、揺り動かしてみた。目だけは薄っすらと開けたが、全体的に弱々しい。
只事ではない。直ぐに救急車を呼ぶ。
次回に続く
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