霜月の夕暮れ(55)

病院は以前に入院していた赤羽のケアミックスの病院をお願いした。救急隊員の問い合わせで、病院側も受入れを承諾してくれた。バイタルサイン(生命兆候)は意識レベルの中等度低下と頻脈が見られる程度で、血圧は安定していた。熱は37.2℃の微熱であった。
病院到着後は一般的な検査と頭部CTが撮られた。しばらくして医師が説明に出て来る。
「脱水症を起こしていますね。最近の食欲はどうですか?…頭部CT所見では特に目立った異常は認められませんでしたが…」
と聞かされ、自分の喉に小骨が引っかかったかの様な戸惑いを伸枝は覚えた。
「はい、この4、5日前から確かに食欲は落ちています」
と答えながら、伸枝はその原因が自分にあるのではないかと微かな疑問に襲われた。さらに医師の説明が続いた。
「ご高齢の方では一度脱水症に陥ると、どんどん体力が落ちて食欲の低下が加速度的に悪化する危険性もありますので、先ずは点滴で栄養管理をして体力の回復を待ちましょう」
と説明され、伸枝は素直に…
「はい、よろしくお願い申し上げます」
と、答えるしかなかった。病院からの帰り道に伸枝は忘れかけた石川啄木の短歌が急に脳裏をかすめた。
「戯れに母を背負いて そのあまり
軽きに泣きて 三歩歩まず」
夜道には梅雨の雨がしとしと降り続いていた。何処から聞こえて来るのか野良犬の遠吠えが哀しい響きを持って伸枝の耳に伝わって来た。それは親に、はぐれた仔犬の泣き声であったのか?
幼き日々の思い出が、次から次へと蘇って来た。伸枝が小学1年の5月、友だちに教えてもらった「母の日」の意味、貯金箱の中から10円玉を5つ取り出して何とか買い求めた1本のカーネーション。風呂場で洗濯に専念していた母に伸枝は恥ずかし気に、その1本の赤いカーネーションを差し出した。
「お母ちゃん、これ…」
吉子は伸枝の方に向き直り…
「どうしたの、伸ちゃん?」
と、やや驚きの表情を示した。
「だって、今日は母の日でしょう。友だちが教えてくれた…」
吉子は濡れた手を拭いて伸枝を思い切り抱きしめた。
「伸ちゃん、伸ちゃん。あんた大きくなって、お母さんにカーネーションを買って来てくれたの…!」
と言いながら、大粒の涙をこぼしていた。また、こんな事もあった。
あれは小学2年の正月2日だったと思うのだが、公園の池一面が氷で張られていた。同じ年頃の子ども達が、その上をおっかなびっくりで歩いていた。伸枝も面白そうなので、その氷の上を2、3歩だけ踏み出した。
「あっ!」と、
思う間もなく伸枝は池の冷たい水の中に放り出された。近くにいた大人が直ぐに救い出してくれたので大事には至らなかったが、それを聞きつけた母が大急ぎで駆けつけ、伸枝の全身をバスタオルで何度も拭き取り自転車の後ろに乗せ、そのまま家に連れて帰った。直ぐ風呂に入れられ十分に身体を温めてもらった。
ポケットの中にあったお年玉の千円札2枚を母は丁寧に乾していた。伸枝自身はずいぶんと惨めな気持ちであったが、母の温もりだけは心から感じた。
あれもこれも思い出せば際限なく、母が自分たち姉妹をどの様に慈しみ育ててくれたか蘇って来る。そんな母に自分は何と云う親不孝をしていたのか、如何に更年期障害とは言え…
次回に続く
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