霜月の夕暮れ(56)

梅雨の雨が降り続く夜道を、一人胸の中を懺悔の思いに覆い尽くされながら伸枝は田端の実家に帰って来た。このまま母の身に最悪の事態が訪れたら、自分の精神はどうなってしまうのか?
肺炎で入院するまでは、あんなにも楽しい母娘関係で母は認知症状も無く食欲も旺盛だったのに、あのインフルエンザ後の肺炎から全てのリズムが狂い出してしまったみたいだ。何がこんなにも母を追いつめたのか?
伸枝の自分勝手な仕事への思いと、更年期障害による自律神経失調症が大きな原因になっている事に間違いはないだろう。そんな、あれこれを考えながら一人台所で味気ない夕食を済ませていた。
すると突然に伸枝の記憶の彼方から、万葉集の父母を慕う歌が湧き上がって来た。
「忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも」
防人の歌であったろうか、原典は思い出せない。女学生の頃、一時的に伸枝は万葉集に耽溺していた時期があった。万葉集の多くは相聞歌(恋愛の歌)で占められていたが、防人の歌には父母を思う歌も遺されている。
それからしばらくは意味もなく言葉の羅列の様に、かつて愛した古典の歌が次から次へと出て来た。
「色も香も昔の濃さににほへども植ゑけむ人の影ぞ恋しき」 紀貫之
そんな歌を一人口にしながら伸枝の頬には涙の一筋が幾重にも続いた。
小椋佳の「母を恋うる歌」を思い出すに及んでは、直ぐにでも母のそばに飛んで行きたい衝動に駆られた。
「いつと限らず 思い出す人
今でも胸の中にいる人
母さん あなたは
どんな時も わたしの…
絶対の 味方でしたね
厳しい目 優しい目
変わらずに わたしに
向けられていた目
今わたしが こうしている
全て あなたのお陰です
微笑みばかり 思い出す人
辛さ苦労を 追い払う人
母さん あなたの
喜びを 隠さない
笑い声 宝ものです
人生も 運命も
切り拓(ひら)く ものだと
論してくれたね
今わたしが こうしている
全て あなたの恵みです
母さん あなたは
どんな時も わたしの
絶対の 味方でしたね」
伸枝は気が狂うばかりに叫びたくなった。
「お母さん、お母さん。私のお母さん。こんな私を許して下さい…」
幼き日々の思い出の数々は、果てしなく浮かび上がって来る。小学校の入学式の日の帰り道、真新しい帽子が風に吹かれ川に落ちてしまい、一人泣きじゃくっていた私に、
「困った風だね、伸枝の帽子が羨ましかったのかね?」
と、慰めてくれた母の面影は今でも忘れられない。
あまりに感傷的な自己嫌悪の中で、枕を涙で濡らしながら伸枝は何時しか浅い眠りに入っていた。
次回に続く
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