霜月の夕暮れ(58)

「おや、まあ!…昨日のえ~と原野さんでしたね。もう傘を返しにいらっしゃったのですか」
と、輝夫は少し驚いた仕草をした。
「はい、だってこの傘はあなたの物でしょう。もう直ぐ梅雨入りすると云うのに傘が無ければ困るでしょう?」
それを聞いた輝夫は少し戯(おど)けて、
「傘が無いって言われても、この店では傘を売っているんですよ!」
「あら、そうでしたわね…」
と、吉子も自分の迂闊(うかつ)さに気づいて、二人同時に目を合わせて笑った。
その輝夫の屈託のない笑顔に吉子は、急に心が惹かれた。そして思い出した様に、持って来た小さな菓子折りを輝夫の前に差し出した。
「これは昨日のお礼です。気持ちばかりの物ですが…」
と、少しばかり恥ずかし気に彼の前に置いた。
「いや、いや、たかだか傘一本ぐらいの事で、こんな事をされては私の方こそ恐縮です」
と言って、彼は受け取るのを躊躇(ためら)った。吉子はそれでも…
「傘の一本とか云う話しではなく、あなたのお気持ちが嬉しかったのです」
と言いつつ、持って来た菓子折りを前に押し出した。
「困ったな、変に気を使わせて…」
そう言って輝夫は頭を掻いた。
「そんな大袈裟な品物ではないのです。私のささやかな気持ちだけです」
と、吉子も引っ込みが付かなくなって来た。
「そうですか、分かりました。それでは遠慮なく…そうだ、良い事を思いついた。この菓子折りは頂きますから、代わりと言っては何ですが、どうか折りたたみ傘を一つお持ち返り下さいな。それで私の気持ちも収まる」
そう言って輝夫は、吉子の顔を笑顔で覗き込んだ。
「まあ、折りたたみ傘を頂けるのですか?…逆に悪いじゃあないですか!」
彼はやや得意気に、
「な~に、これでお相子(あいこ)じゃあないですか!」
と、答えた。
「お相子ですか、でも何か変な感じがしますね。まあ、お言葉に甘えて折りたたみ傘を頂く事にします。女性物は、どんな物がありますか?」
吉子は、この輝夫との会話が楽しくなり出した。もっと色々な話しがしたくなって来た。
「そうですね、この薄いピンクの傘なんかはどうです。あなたにピッタリだと思いますがね!」
と、輝夫は嬉しそうに店の奥から1本の傘を持ち出して来た。吉子は一目で気に入ったが、遠慮がちに…
「これって、お高いんでしょう?」
と、尋ねた。
「な~に、大した事は無いですよ。あなたが気に入るかどうかが問題ですよ」
そう、事もなげに彼は言った。
「分かりました、それでは遠慮なく頂きますわ。折角ですからレインシューズも見せて頂いて良いかしら?」
「レインシューズですか?」
輝夫の顔に幾らか陰が差した。彼は明らかに誤解していた。折りたたみ傘だけではなく、レインシューズまで強請(ねだ)るのかと…!
吉子は彼の表情の変化に直ぐ気づいた。
「いえね、前からレインシューズは買い求めるつもりでいたの。次いでだから、あなたのお店で買って行こうと思っただけ。普通の客として、レインシューズを見せて下さらない?」
輝夫は自分の愚かな誤解を恥じて、少し顔を紅くした。
次回に続く
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