霜月の夕暮れ(60)

そんな両親の昔話を伸枝は童話の様に、それは「シンデレラとガラスの靴」でもあるかの如く吉子に話して聞かせた。
その当時、日頃から寡黙な父ではあったが、酔った日などには上機嫌で昔話に花を咲かせる事も多かった。横で母は恥ずかしそうな顔をして、
「もう止めなさいよ、年頃の娘の前で…そんな古い話しは!」
と、よく諌(いさ)めていたが顔付きは満更でもない感じだった。
伸枝の口から繰り返し聞かされる父親との話しに、吉子は2週間目頃から少しずつ反応を示し出した。まだ介助は必要であったが五分粥は、ほぼ全量を口に出来、明日からは全粥にしても良いと医師から許可の出た夕食の事であった。急に吉子の口から…
「お父さん…!」
と云う言葉が出た。伸枝は驚いて聞き返した。
「いま、お父さんって言ったの?」
吉子は未だ焦点の定まらない表情で、
「うん、お父さんは…?」
と、尋ねて来た。
「そう、お父さんの事を思い出したのね…そうなんだ、お父さんの事を思い出したんだ…」
伸枝はハラハラと涙をこぼしながら、吉子の手を取った。
「今日は、お父さんはいないのよ…」
と、伸枝は優しく答えた。それでも吉子は…
「お父さんは、どこ…?」
と、辿々(たどたど)しい言葉で聞いて来た。一瞬どの様に受け答えしたら良いのか、伸枝は思い悩んだが母の言動の全ては一度受け入れるしかないと考えた。父の生死の事実よりも、母の記憶を呼び覚ます事の方が重要ではないかと思えてならなかったのだ。
「お父さんは、今日はね…用事で出かけているの」
「ようじ…お父さん、ようじ…」
そんな片言を何度か繰り返していたが、その内に疲れたのか吉子は眠ってしまった。
時計の針は7時を指していた。伸枝は急いで帰りの支度にかかった。これからスーパーに寄り食事の買物をして家に帰る。夕食は出来合いの惣菜物で適当に済ませる。そして母の汚れ物と自分の下着などの洗濯をして部屋の掃除を簡単に済ませ、風呂に入ると12時近くにはなっている。後は倒れる様に寝てしまう。朝は5時半に起き出し、飲み込む様に朝食を済ませ、自分の弁当を作り6時半には自宅を出て病院に向かう。
こんな生活を2週間ぐらい続けているが、精神的な疲労感は少ない。介護と仕事の両建ての時の方が、どちらも中途半端で心のバランスが取りにくい感じがした。彼女をあれ程まで苦しめていた更年期障害も一時ほど辛くはない。更年期障害を感じている暇もないと云った方が当たっているのかもしれない。
母の介護に専念し、家事も自分の身の回りの事も殆んど放棄した様な今の生活の方が心は楽みたいだ。
それもこれも夫からの仕送りが、圧倒的な支えになっている。経済的な支援がなければ如何に伸枝と雖(いえど)も、ここまで母の介護に専念は出来なかったに違いない。
しかし、これまでの入院費などに掛かるお金は伸枝の貯金から何とか工面していた。出来るなら夫からの仕送りには手を付けたくなかった。母の年金は使わせてもらったが、それぐらいでは個室の室料差額にまでは手が回らない。以前の入院の時は夫からの援助も仰いだし、父の預金からも必要なお金は使わせてもらったが今回の入院は、伸枝自身の更年期障害による母への介護疲れが大きな原因になっている様な気がしてならなかったので、自分の出来る範囲の事はなるべく頑張りたかった。結局は自分の貯金を取り崩すしかなかった。
次回に続く
関連記事

コメント