霜月の夕暮れ(61)

1ヶ月間の入院で吉子の食欲は、殆んど改善した。歩行能力は車椅子が中心であったものの、全粥は完食だった。担当医にも退院を勧められたので後は在宅介護に切り替える事にした。要介護度はⅢになって、ホームヘルパーの支援も以前よりは多く認められる様になっていた。
伸枝にしても、そろそろ限界に達していた。肉体的にも経済的にも…
1ヶ月間の入院費は個室料を含め80万円だった。吉子が入院中は田端の実家も掃除が行き届かず、かなり汚れが目立っていた。退院前日は病院に行かず伸枝は家中の掃除に専念した。母のベッドシーツを洗い、部屋の隅に薄っすらと溜まっていた埃(ほこり)も綺麗に除去した。この1ヶ月間は病院通いで、家に帰ってもただ寝るだけの生活だった。浴槽の水垢も落とし窓ガラスも拭いた。家の掃除と云うものは始めると際限がない。手を抜き出したら幾らでも手を抜けるし、気になり出したら1日や2日では終わらない。要は自分の気持ち次第だ。それでも伸枝は出来る限り清潔な状態で、母を迎えたかった。この日、伸枝は10時間近くは家の掃除で追われていた。
翌日は朝一番でスーパーに出かけ、食材を出来るだけ買い求め、自分の昼食を早めに済ませ2時には病院に出向いた。吉子は些(いささ)か待ちくたびれた顔をしていた。
「お母さん、待たせてご免ね。家のお掃除をしていたのよ。少しでもお家を綺麗にして帰って来て欲しいと思ったから…」
そう言って、伸枝はニコニコと笑って母の手を軽く握った。吉子は少し頷いて嬉しそうな顔をした。会計を済ませ、ナース達に礼を述べた。幾人かのナースが笑顔で母娘を送ってくれた。
「こんなにも早く元気になったのは、娘さんの毎日の献身的な介護があったからですよ」
と、看護師長がしみじみと語った。
伸枝はやや恥ずかし気に…
「娘として当たり前の事をしただけです」
とだけ、答えた。伸枝のそんな返答に…
「そう云う当たり前の事が普通は出来ないものよ」
と、別のナースが感慨深気に話した。
「伸枝さんは、この1ヶ月間は朝から夜まで1日も欠かさずお母さんの食事介助をなさっていたでしょう。そんな親孝行な人なんて、なかなか居るもんじゃあないでしょう」
と、師長が付け加えた。
「いえ、それは私が偶々(たまたま)そう云う事が出来る恵まれた環境にいたからですよ」
と、伸枝は謙虚に応えた。事実、彼女自身がそう考えていた。世の中には自分より親孝行な人は幾らでもいるに違いない。ただ経済的事情や生活上の理由から、それが出来ないだけだ。
現に妹の静子だって、母を想う気持ちは自分と変わりはないはずだ。それが、ぎりぎりの経済生活で子供が3人もいる様では母の介護どころか自分達の生活を守るのが精一杯だろう。
それを考えると、夫の俊治に支えられて母の介護にだけ専念出来る自分は幸せな人間だと、思ってしまう。確かに伸枝も自分のやりたい仕事を犠牲にして、一時はその事で随分とイラ立ちを覚えていたが、要は心の持ち方だ。仕事を取るか、母の介護を取るかではなく、何をしていれば自分の心が穏やかでいられるかが問題なのだ。その意味では、この1ヶ月間と云うもの伸枝の心は平穏であった。何の迷いもなく、母の介護に専念出来て悔いが残らなかった。
次回に続く
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