霜月の夕暮れ(64)

「そうですか、分かりました」
と言って、沢本医師は伸枝のレポートを読み始めた。10分程して彼は目を上げ、
「いゃあ感心しました。あなたが今まで実践して来た事は、正に認知症の生活療法そのものです。何か認知症の勉強をなさったのですか?」
と少しばかり感動した様な面持ちで、伸枝の顔を見た。
「はい、2冊ぐらいは認知症に関する本は読みましたが…」
と、彼女は幾らか恥ずかし気に答えた。
「そうでしたか、それにしても本を読む事と実践する事とは、また別の見地ですよね。それを貴女はそのまま素直に実践していらっしゃる。ちょっと驚きました」
「いゃあ、そこまでお褒めに預かると返す言葉も見つかりません」
と言って、伸枝は顔を少し紅くした。
「ところで、今は何処かで認知症の治療を受けているのですか?」
「いいえ、認知症の治療は何処でも受けていません。それで今日は先生の所に伺ったのです」
「そう云う意味ですか、それで今は何が一番お困りですか?」
「いゃあ、困っていると云う程の事もないのですが、近頃とみに母の表情が乏しくなって行く様に見えるのです。それで私の思い過ごしかどうか、一度先生の診察をお願いしたいと思いまして…」
「分かりました。その表情が乏しいと云う事以外に何か特別に気づいた表情はありませんか?」
「そうですね、以前よりは物忘れが少し酷(ひど)くなっているかもしれません」
医師はさらに尋ねた。
「被害妄想や幻覚などの症状は、どうですか?」
「そう言えば、隣のアパートの人達がこっちを見て母の事を何か話しているなどと申していた事はありました。しかし、アパートのこっち側は壁ですので何も見えるはずはないのです。母が何か勘違いしているのだろうと考え、私の方では気にしていませんでした」 
と、伸枝は感じたままに話した。
医師は黙って聞いていたが、
「そうですか、その様に伺うとレビー小体型認知症の悪化を強く疑いますね」
と医師は、説明をし出した。
「この数年間、病状が進行しなかったのは貴女の生活療法が相当に効果を上げていたのでしょう。しかし、幻覚や被害妄想はすでに出ていると思いますし、今貴女が一番心配していらっしゃる無表情と云うのもパーキンソン症候群による仮面様顔貌か、あるいは『うつ症状』かの疑いを抱かせますね」
「そうなんですか、やっぱりレビー小体型認知症が進んでいると云う事になるのですか!…そうしますと、この先はどうすれば良いのでしょうか?」
「そうですね、またスタートに戻ってアリセプトの少量服用に生活療法を加えて行くべきでしょう。その際に重要な事は脳トレーニングを根気良く続けて行く事です」
「脳トレーニングって、具体的には何をすれば良いのですか?」
「記憶力や計算能力を毎日少しづつ高めて行く訓練をして欲しいのです」
伸枝は少しばかり不可思議な顔をして聞いた。
「記憶力って、今の母にですか?…そんな事って可能なのですか、第一母がやってくれるかどうか!」
「確かに人間は誰でも年を取るにつれて記憶力は衰えて行きます。医者の私だって20才代に比べれば記憶力はかなり落ちています。だから仕方の無い事だと諦めるのは間違っていると思います。人は生きている限り努力してこそ、万物の霊長と言われる資格があるのではないでしょうか…!」
次回に続く
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