霜月の夕暮れ(67)

医師の話しは続く…
「現在の日本人は基本的な生きる指針を失っているのです。人は、どの様に生きてどの様に死んで逝くのか?…そこには何の規律も無いのです。規律が無いと云うのはルールの無い社会です。野球であろうと、サッカーであろうと、ルールがあるから面白いのです。ルールもなく、監督も無いゲームなんて普通は成立しないでしょう。だから日本人は死ぬ間際になって、あれこれと思い悩むのです。何の規律もないから…。胃瘻(いろう)を付けるべきか、人工呼気器はどうすべきかなどと…」
「えっ、欧米では胃瘻を付けたりはしないのですか?」
「胃瘻を付けると云う発想そのものがないですよ。食べられなくなったら後は天に召されると云う考えが染みついています。少なくても80才を過ぎて胃瘻だとかCV(central venous 中心静脈)などで人為的に栄養補給するなんて事はしません。恐らく、お友達のいらっしゃるデンマークでは胃瘻なんて手術を出来る医師は一人もいないかもしれませんよ。やる必要がないから、それを出来る医師さえいなくなるのですよね。まあ、話しは長くなりましたがお母様には脳トレーニングを中心とした生活療法を中心に取り組んで下さい。また以前にもお出ししたアリセプトの少量(2mg~3mg)服用が表情の変化を改善させるかもしれません。
もし、これで効果が見られなかったら抗パーキンソン剤の使用も試みてみる価値はありますね」
「パーキンソンの薬ですか?」
「前回にもお話しをした事ですが、お母様の病状は間違いなく、レビー小体型認知症ですから、そうなるとパーキンソンの薬が無表情な仮面様顔貌には効果を上げる事が多いのです。ともかく先ずはアリセプト2mgで2週間服用させて様子を見てください。恐らく認知機能が少しは改善すると思いますが…ただし、表情の乏しさは同じかもしれません。それでも一遍に沢山のお薬を出すのではなく少しづつお母様の病状の変化を見ながら、お薬の量は調節して行きたいと思います。そうしないと、どの薬がどの程度に効いているのか分からなくなります」
「よく分かりました。取り敢えずアリセプト2mgを2週間服用させて、また参ります。今日は貴重なお話しを沢山お聞かせ頂いて有難うございます」
「いいえ、それよりも今までの生活療法は続けて下さいね。お薬よりは、貴女のお母様への話しかけの方が余程効果を上げていると思いますから…」
「分かりました、これからも頑張ります。それでは、失礼します」
「それでは、お大事に…ね」
と、医師は笑顔で送ってくれた。
その後、自宅に戻り伸枝はアリセプト2mgを毎朝母親に飲ませ続けた。病院からもらって来た脳トレーニングのコピー用紙もやらせてみた。始めの1週間程は、まるで関心を示さなかった。夕食後の一時、仕方なく伸枝は自分一人で脳トレーニングの記憶編をやってみた。初級用なので伸枝にはいとも簡単に出来た。2文字、10個の単語を覚えるのに2分は愚か1分もかからなかった。3日目には用紙を見なくても10個の単語は直ぐに書ける様になって来た。それでも母親の手前、夕食後の一時には必ず脳トレーニングを実施した。5日目頃から伸枝のやっている仕草に多少の関心を現わしたが、自分からやろうとはしなかった。それでも伸枝は根気強く、
「わあ、今日は9問も正確だった!」
と言って、自分で自分に拍手をした。
吉子はチラリと伸枝の顔を、
「何が楽しいんだろう」
と云う、面持ちで見た。
次回に続く
関連記事

コメント