霜月の夕暮れ(69)

「そうなんですか、一口に医師と言っても診療科目によっては物の見方がそんなに違うんですね」
そう言って伸枝は溜め息をついた。
「だから、夫々の専門医制度と云う物が存在するのでしょうか?」
「それは確かに否定出来ない一面ですが、それだけでもないでしょう。何科であろうとも、医師本来の資質に起因している面も多いのではないでしょうか?…例え外科系の医師であっても、精神科領域に深い造詣を持っていらっしゃる方だっていますから」
伸枝はあっさりと頷いて、
「そうですよね、一口にお医者さんと言っても色々な方がお出でになりますものね」
「まあ、それはともかくとして当面は現状のアリセプト2mgと貴女が実施している脳トレーニングで、お母様の様子は診て行きましょうか。では、また2週間後にお出で下さい」
「色々と有難うございました。それでは2週間後にまた参ります」
何か一本の道筋が開けた思いで、母と共に伸枝は病院を出た。
そして、伸枝はそれからも夕食の一時を吉子の脳トレーニングに費やした。ただ文字による単語の記憶トレーニングだけではなく、幼稚園児に使う絵札なども取り揃えてみた。これらの努力が実って10日もしない間に吉子は、記憶力の初級コース(2文字の単語10個)は全て暗記出来る様になった。
しかし次の初級中級コースは、かなり手間取った。吉子の意欲が低下して来たのだ。色々と考えて、童謡を中心としたBGMを流してみた。始めの数日間は音楽を聞くだけで脳トレーニングには手を出さなかった。4日目に「カモメの水兵さん」が、かかった頃から吉子の意欲が少しずつ出て来た。脳トレーニングには手を出さなかったが、鼻歌まじりの節は出て来た。
伸枝は母親の鼻歌に合わせて楽しげに歌った。吉子の表情も明るさを増して来た。
そのタイミングを狙って、脳トレーニングの用紙を母親の前にそれとなく差し出してみた。しかし、吉子は一瞥(いちべつ)するだけで伸枝の誘いには乗って来なかった。それでも伸枝は挫けず、
「こんな事できるかな…あんな事できたら良いな…」
と勝手な節回しを付けながら、一人で大きな声を出しながら脳トレーニングの用紙に向かって行った。
「すずめは、チュンチュンって鳴くのかな?~あれ、くまはどんな風に鳴くのかな?」
と云った具合に脳トレの単語を覚える仕草で自作自演をやってみた。すると吉子が、
「くまは、クマ…クマ…」
って鳴くんだろうと、言い出した。実に明快な発音だ。伸枝はゲラゲラ笑い出して、
「くまだから、クマ…クマ…って鳴くの。それって、面白すぎない」
と、言葉を返した。吉子はそれ以上反論はして来なかったが、顔はやや哀しそうだった。母親の表情が真剣そうだったので、改めてネットで熊の鳴き声を調べてみた。すると驚いた事に吉子の言う通りだった。熊の語源自体が、
「クマ…クマ…」と鳴く事から発していると、ネットには書かれてあった。伸枝は母親の手を取って、
「お母さん、ご免ね。お母さんの言う通りだったわ、クマ…クマ…って鳴くんだ」
と、素直に自分の無知を詫びた。
それで吉子の機嫌も直り笑顔が戻って来た。
次回に続く
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