霜月の夕暮れ(70)

「それじゃあ、かもめはどんな鳴き方をするのかな?」
と、伸枝は動物の鳴き声から母親の脳トレの誘導を試み始めた。
「カモメの水兵さんって、どんな鳴き方をするのかな?…♪波にチャップチャップ浮んでいる♪…から、チャップチャップって鳴くのかな!」
と伸枝が言いだすと、今度は吉子が笑い出した。明らかに、
「そんな変な鳴き方はしないだろう…!」
と言った顔つきである。伸枝も自分の言い草が可笑しくなって、
「そうよね、そんな変な鳴き方ってないわよね」
と、言い直した。
「まあ、良いか。かもめの鳴き方はこの次の宿題にしとこうか…」
伸枝はそこで話を打ち切り、
「じゃあ、りすの鳴き声は?」次に話題を転じた。吉子はそれなりに考えていたが答えは出て来ない。
「りすの鳴き声なんて普段は考えないもんね。でも動物って発情期とか威嚇するとかによって鳴き方も違うのよ…りすの発情期は『ホロツ ホロツ 』って鳴くって聞いた事があるわ…」
と言った伸枝の説明を、吉子は真剣に聞いていた。
コピー用紙の脳トレの暗記をただ強要するより、時に色々とアレンジに変化を持たせた方が良いのかもしれない。このあたりに伸枝の雑誌記者としての経験が強く活かされている。突然のキャンセルで穴の空いたページに次回の原稿を埋め合わせたりするのは、彼女の得意技の一つである。
大塚の病院でもらった脳トレの用紙に彼女なりの工夫を幾つも重ねて、吉子の認知機能は確実に向上して行った。動物の鳴き声や絵札、BGM、その他(食べ物探し)など、どんな本にも書いていない事を考え出していった。
食べ物探しは、絵札と単語を提示して、
「お母さんの一番好きな食べ物は何でしょうかとか…昨日の夕食は何だった?…あるいは一番得意なお料理は何ですか?」
と云った具合に食べ物に対するエピソードから脳トレをして行くものである。
この「食べ物探し」は、かなり効果的であった。クイズ的な要素に、ご褒美に近い物を付加していくのだ。例えば、
「お母さんはお寿司と焼き肉のどっちが好き?」
と云う質問に、「お寿司」と答えた場合は、そのまま二人で寿司屋に出かけると云った具合である。
何か食べ物で釣り上げる様な気がしないでもないが、それはそれとしても伸枝は考える限りの努力はした。その年も終わる頃には吉子の言葉も理解が相当に増えていた。幾らか気になる呂律障害は残っていたが、日常生活に大きな支障はなかった。
2015年の正月を迎え、久しぶりに妹夫婦が田端の実家にやって来る。
「お姉ちゃん、ご無沙汰ばかりで本当にご免なさい。お母さんの事は何もかも任せ切りで申し訳なく思っています」
「良いのよ、そんな社交辞令的な挨拶わ…それより英輔(えいすけ)くんの大学受験はどうなっているの。今は二浪目でしょう…!」
妹の静子は肩を落として、
「本当に英輔の事を考えると頭が痛くなるわ…今度受験に失敗する様だったら、もう大学は良いから働いてもらう事にしようって、この間も主人と話し合ったばかりなのよ。頭の悪い子供を持つと苦労するわ…」
次回に続く
関連記事