霜月の夕暮れ(73)

「そうですか、大学の心理学の授業では鋭敏な女の直感は下手な学問を上回るって、講義を受けた事があるんですがね」
伸枝は真顔になって尋ねた。
「本当ですか?」
「嘘です…」
と言って、俊治は悪戯(いたずら)ぽっく笑った。
「ひどい、お揶揄(からか)いになったのね」
伸枝は少し涙ぐむ様にして俊治を睨んだ。
「すみません、冗談が過ぎました。もしお許し頂けるなら何か美味しい物でも食べて機嫌を直してくれませんか。お詫びの印にどうでしょうか?」
伸枝の気持ちは動いたが、今は勤務中だ。先輩記者の顔をチラリと見た。伸枝の心を察してか…
「折角だから、ご馳走になったら。これもお仕事の一環だと思うけど」
と、労わる様に言ってくれた。
「仕事の一環」
だと言われ、伸枝はすっかりその気になった。俊治に対する興味もあったし…時間は6時を過ぎていた。どんな店に連れて行ってくれるのか、それなりの期待はあった。東大卒のエリートサラーリマンって、一体どんな所で食事をするのだろうか、好奇心は尽きない。しかし、俊治が連れて行ってくれたのは渋谷駅近くの「焼き鳥屋」だった。
その余りの庶民性に少し肩すかしを喰った気分であった。それでも個室があって、料理も美味しかった。生ビールも注文した。伸枝はウーロン茶にしょうかと少し迷ったが、
「幾らかは飲めるのでしょう」
と言われ、
「はい!」
と、誘われるがままに答えてしまった。
「何時もこう云うお店が多いのですか?」
多少は期待外れの思いがあって、伸枝はそんな質問を投げかけた。
「そうですね、気楽で肩の張らない店が多いかな」
俊治は、然(さ)りげ無く答えた。
「山口さんの様なエリートサラーリマンだと、こう云った庶民的な場所には来ないかと思っていましたわ」
「それは大きな誤解ですよ、20代のサラーリマンなんて、どんな会社に勤めていたとしても皆んな、安月給に変わりは無いんじゃないですか…!」
伸枝は澄み切った瞳で、
「そうなんですか、私たちと同じなんですね。何だか安心しましたわ」
と、溜め息まじりに言葉を繋いだ。そして生ビールを口にした。俊治はすでに半分以上はビールを飲み干していた。飲む程に俊治の口は饒舌(じょうぜつ)になって来た。
「エリートサラーリマンなんて言ったって、所詮は貧乏人の小倅(こせがれ)ですよ」
伸枝は驚いた顔で、
「貧乏人の小倅って、どう云う意味ですか?」
「いや、ただ素直に自分の事を話しただけですよ。親父は四国の田舎でしがない靴屋をやっているだけですよ。靴屋と言ったって農家相手の雨合羽やゴム長靴を売っている食うだけがやっとの店ですがね。だから乙に澄ましてエリートサラーリマンなんて言われると、気恥ずかしくなりますよ」
伸枝は言葉に詰まったかの様に
「へ~え…」
とだけ答えた。
次回に続く
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