霜月の夕暮れ(74)

俊治は一杯目の生ビールを飲み干し、二杯目を注文した。伸枝は一杯目の1/3ぐらいしか飲んでいなかった。俊治の話はさらに続いた。
「つまり僕が言いたいのは、貧乏人の小倅がたまたま運に恵まれ東大に合格しただけの事なんですよ。大体が大学になんか行ける様な身分じゃあなかったんです。事実、親父は僕が大学に行きたいって言い出した時は呆れた顔で、家の何処にそんな金があるかって言ってましたから…一人で東京に出て大学に行って下宿する金なんか、どうやったって捻出しようがなかったんですよ」
やや自嘲気味に俊治は呟(つぶや)いた。
「それでどうなさったんですか?」
「子供の事ですから大した事は出来ませんが、それでも中学時代から新聞配達をしたり手間賃みたいな仕事は何でもして高校卒業までには100万円ぐらいは稼ぎましたかね…もちろん学習塾に行ったり、参考書を買うお金などは全く無いですから学校の図書館を利用したり、先輩から参考書のお古を貰ったりしていましたがね」
その当時を懐かしむかの様に、俊治は語り続けていた。
「ともかくお金がなかったですから、大学にしても費用の安い国立しか受験は出来ませんでした。浪人するなんて選択肢は許されるはずもないでしょう」
「でも、そんな新聞配達をしながらの生活で東大に現役で合格するなんて凄いですね」
「いや、さすがに高校3年になってからは新聞配達のバイトは辞めました。それと高校の担任が自宅に来て、何とかして僕を大学に行かせて欲しいと言って来たので父親もかなり僕の大学受験に心が傾いたみたいだ。それに教師一同の気持ちだからと言って、担任から50万円の紙袋を手渡さた時は家中が飛び上がるばかりに驚きましたよ」
「担任の先生が50万円も持って来たのですか…!」
とても信じられないと云った顔付きで伸枝は俊治を見た。
「そうなんですよ、とても信じられない話ですが、ともかく我が県立高校から未だ一人も東大に合格した生徒はいない。山口君は我が校の誇りになる様な生徒だから、是非とも東大に行って欲しい」
と、言って来たんです。
「そんなに成績が良かったんですか?」
「そう白地(あからさま)に言われると、ちよっと返答に困るのだが全国模試で常にベスト10入りしていたのは事実ですね」
「その模試には何人ぐらい参加するのですか?」
「うん、その月々によって違うけど5万から10万人ぐらいかな…」
「もの凄いですね、そんな成績だったら東大合格は確実じゃあないですか」
伸枝は驚嘆して叫ぶ様に言った。
「まあ、学校側は少なくてもそう考えたんだろうね」
「学校だけでは無く、誰だって同じ様に考えるじゃあないですか!」
「それは、どうでも良いとして僕の親父はそんな事にまるで興味がなく、ともかく大学なぞ行ったって屁理屈を覚えるだけだの一点張りだった。そんな噂を耳にした学校側が校長以下の全員が焦ったみたいで緊急の職員会議が開かれたそうです。その席で教頭が音頭を取って『山口君を何としても東大に行かせようと』と、提案され教職員全員に寄付行為が斡旋されたと云う訳なのです。これには親父もさすがに兜を脱いだ訳だ。それからは好きだったアルコールも一切止め親父なりに貯金に励んだ訳ですよ」
次回に続く
関連記事

コメント