霜月の夕暮れ(75)

「素敵なお話しですね」
と、伸枝はうっとりと囁く様に言った。俊治は少し酔ったのか、幾らか赤ら顔で…
「ところが、世の中はそんな単純には行かないのですよ」
「何かあったのですか?」
「親父も含め皆んなが東大!…東大!…って言い出すと何故か急に成績が落ち始めたのです。歯を食いしばっても一人で東大に行くんだと頑張っていた時の方が気力が充実していたのでしょうね。皆んなの期待感が逆に大きなプレッシャーとなって、その当時の僕は少し神経過敏になってしまった様です。常にベスト10入りしていた全国模試が実に500番まで落ちたのです。これには焦りましたね。その後は少し盛り返しましたが、それでも二度とベスト10入りするなんて事は無くなりました。どんなに頑張っても100番前後がやっとでした。それに伴って学校の先生方や親父も僕を見る目が変わって来ました。『何だ、口ほどにもない奴だな…』と云った視線が露骨に感じられ始めたのです。そして、そう云った視線が僕をより精神的に追い詰めたのです。それが高3の秋頃からです。
その意味では、ここからが僕の本格的な受験戦争となったのかもしれない。それまでは誰に何を言われる事も無くマイペースで勉強していましたから、勉強そのものが楽しかったのです。サマセットモームやヘミングウェイを英文で読む喜びを一人味わっていたのです。
枕草子や徒然草にしても誰に気兼ねもなく古典の世界を彷徨(さまよ)い歩いていれば良かったのです。数学の三角関数にしてもパズルを解く様なゲーム感覚で遊んでいれば毎日が明るく暮らしていけたのです」
そこまで語って俊治は一息ついてビールを少しだけ飲んだ。
「ところが、何が何でも東大に合格しなければならないと考え出すと、そこからは受験戦争になってしまうのですよ。趣味に等しかった英語や数学が受験の為となると苦痛以外の何物でもなくなるんだから、可笑しいですよね。それまでは何も考えずに覚えていた英語の慣用句や数学の公式が受験を意識する事により、覚えられなくなって来たのですから焦りましたね」
「そんな物ですか?…私はそう云う本格的な受験勉強をした事がないから分からないんですけど」
「少なくても僕は受験を意識する事により、毎日の生活は180°変わりましたね。ですから僕が受験勉強で苦しんだのは半年ぐらいでした。そして焦れば焦るほど成績が落ちて行くんですから、嫌になりましたよ」
「それで、どうなさったのですか?」
「入学願書を出す直前に進路志望を変えました」
「えっ、東大受験を断念したのですか?」
「東大を諦めた訳ではないですが、志望を変えたのです。理三(医学部コース)から文一(法科コース)にと変えたのです」
「そんなに違うのですか?」
伸枝にとっては全く知らない世界であった。
「理三は90名前後しか合格出来ないのですが、文一ですと400名以上は取るのです。つまり日本中の最強エリート90名前後しか、理三には合格出来ないのですよ。全国模試でベスト10入りしていた時の僕なら理三も夢ではなかったのですが、200番前後を行ったり来たりしていた僕には理三は無理でしょう」
次回に続く
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