霜月の夕暮れ(76)

「それでも文一に現役で合格なさったのでしょう。ご立派じゃあないですか」
俊治は少し自嘲気味に、
「結果から見ればそうですが、しかし自分の志望レベルを落としたと云う僕の挫折感は消えませんでした」
「理三に行って、お医者さんにでも成りたかったのですか…!」
「そう云う意味でも無いんですが、ただ日本で最難関の学部に行きたいと云った、今から考えれば子供じみた自尊心だけが強かったのです。でもその時の僕には大きな挫折感でした。もちろん学校の先生方は皆んな飛び上がらんばかりに喜んでくれましたが、僕だけが何か釈然としない思いを抱いていたのは事実です」
「随分と贅沢な悩みです事…」
伸枝は少し茶化す様に言った。
「まあ、常識的に考えれば貴方の言う通りだと思います」
と、俊治は伸枝の言い草を素直に受け入れた。
「すみませんね、僕一人が好き勝手に喋りまくって…」
「そんな事は全くありませんよ。だって山口さんの取材が今日の仕事の目的ですから」
「そんな言われ方をすると、少し寂しい気がしますね。貴方の話も何か聞かせて下さいな」
「私の話ですか、山口さんの様にそんな晴れがましい出来事なんか何もないですわ。頭だって中以下のレベルですし…出来の悪い妹が一人いて後は普通に父と母がいると云った粗末な内容しかないですよ。そうだ、一つだけ山口さんの家と共通点がありました。実は私の父も靴屋を営んでいるのです。田端で今も細々と続けていますが、その日暮しである事には変わりはないですわ」
「でも田端と言うと東京23区内だから四国の田舎よりは、お店だって良いでしょう」
「東京と言っても田端なんか下町ですから、殆んどのお客さんは上野のデパートに行ってしまいますから大した売り上げは見込めないですよ。私のどうでも良い話なんかより、山口さんのお話しの方が余程興味深いですわ。ご迷惑でなければ、もっと色々なお話をお聞きしたいです」
「そうですか、それならもう少し調子に乗って僕の無駄話に付き合ってもらいましょうか…大学受験の結論から言えば、僕は文一から法学部に進んで正解だと思っています。ただの勢いで理三から医学部に行ったら、恐らく後悔していたでしょう」
「どうしてですか?」
「先ずは血を見るのが嫌いですし、メスなんか持って人間の身体を手術するなんて考えるだけでゾッとするじゃないですか。基本的に僕は文化系の人間なんです」
「そうなんですか…それでその後の生活費はどうなさっていたのですか?」
「まあ、自分で溜めた100万円は大学受験だとか、東京での下宿探しなどで直ぐに使い果たしてしまいました。それ以外にも頂いた寄付金その他で100万円近くは未だ手許にあったので半年ぐらいは何とかなりましたが…後は家庭教師のバイトで何とか食い繋いで行きました。そこまでは良かったのですが、その先にちょっと困ったアクシデントが発生しましてね…まあ、良いか。そこまで貴女に話す事ではないな、すみません。生ビール2杯で、ここまでお喋りになるとは自分でも呆れたもんです。また機会があれば、この続きを話す日があるかもしれませんが本日はこの辺りでお開きにしましょう」
次回に続く
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