霜月の夕暮れ(77)

伸枝は未だ別れ難かったが、俊治にそう言われると、それ以上は引き留められなかった。別れ際に伸枝は自分の名刺を俊治に手渡して、
「また、お時間があればお電話を下さいね。私の方は何時でも構いませんから…」
と、別れ惜しそうに俊治の目を見て言った。
「そうですか、何時お電話できるか分かりませんが一応は名刺をお預かりします」
やや覚めた様な俊治の返事であった。彼には出版社からタクシーが回され、そのまま帰ってしまった。伸枝にとっては何とも心残りの別れ方ではあったが、まさか追いかける訳にも行かず、仕事と割り切って彼を黙って見送るしかなかった。
ともかく今日の取材目的は十分に果たせたのだ。それだけで満足すべきだろう。翌日の朝、上司に昨夕の取材報告をするとニコニコ笑いながら、
「山口さんは貴女に少し気があるかもしれないわ」
と言われたが、伸枝にはその意味を解しかねた。大体学歴も違い過ぎるし、社会的立場もかなり隔たりがある。そんな彼が自分などに興味を持つはずがないだろう。
しかし、その数日後に俊治から会社に電話が入った。「まさか」と思っていた相手からの連絡だ。
「先日は有難うございました。今日は何か?」
電話を受ける伸枝の心は幾らか弾んでいた。
「いえね…先日貴女は名刺入れを落とし忘れていかれませんでしたか?」
「名刺入れですか…!」
この数日間は名刺交換する相手もいなかったので、落とし忘れていたと云う事実その物さえ全く気づいていなかった。
「申し訳ございません。その様な事で、わざわざご連絡を頂きまして。郵送で会社宛てにお送り頂ければ…いや、それでは逆にお手を煩わせますわね。よろしければ私から、ご指定の場所まで受け取りに伺います」
電話の向こうで俊治が少し迷っている様だった。
「貴女にわざわざ来て頂くのも大変でしょう。今日は予定が突然キャンセルとなってしまったので、よろしければ一緒に夕食でも取りますか…貴女の都合次第ですが!」
伸枝はドギマギして答えた。
「私の方は一向に構いませんが、逆にご迷惑ではないでしょうか?」
「そんな事はないですよ。何か時間が急に空いて、その埋め合わせに貴女を利用する様で謝るのは僕の方かもしれない」
「謝るなんて、とんでも無いですわ。お誘い頂いて光栄です。それで何方(どちら)に伺えば良いのでしょうか?」
「それでしたら、渋谷の忠犬ハチ公から歩いて3分ぐらいの所に『すし常』と云う寿司屋がありますけど、そこで7時にどうですか。電話番号をお伝えしますと、『03-△△27-△△43』です。お時間は大丈夫ですか…ご無理でしたらもう少し遅くしても構いませんよ」
「分かりました。その時間で結構です。必ずその時間にはお伺いします」
「それでしたら、私の名前で予約を入れておきます。多分2階の個室が取れると思いますので、そこでお待ちしています。それでは後ほど…」
次回に続く
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