霜月の夕暮れ(78)

伸枝は会社の退社時間が来ると、飛ぶように渋谷へと向かった。季節は夏から秋へと変わっていたが、まだ残暑は厳しかった。伸枝は自分の服装が幾らか気になり出していた。前回俊治と会った時と同じ濃紺のリクルートスーツで、洒落っ気がまるでない。でも、こんな急な呼び出しでは服の準備も何もあったもんではない。それでも知らぬ間に湧き上がる喜びは隠せなかった。
前回の取材で彼女のもつ『東大卒』と云う彼へのイメージは大きく変わっていた。エリート集団と云う堅苦しい先入観は一掃され、俊治を知る事により彼の大学受験までのプロセスを聞き及んで、何か親しみのある人間臭さを感じていた。
親に大学受験を反対され、自分で新聞配達をしながら学資金の基礎を作り上げ、担任教師の説得で頑固な父親が何とか彼の受験に心が傾き出すと、そこから全国模試の成績が落ち始めたとは何とも興味深いエピソードではないか。
一体今日はどんな話が聞けるのだろうか?…ただの取材と云うよりは彼に異性としての深い関心を示している事に伸枝自身は未だ目覚めていなかった。
彼女が指定された渋谷の「すし常」に着いたのは6時45分だったが、俊治は未だ来ていなかった。
俊治は約束の7時丁度に現れた。
「いゃあ、お待たせしてしまったのかなぁ…!」
と、屈託の無い笑顔で俊治は入って来た。
「いえ、私も今来たばかりですから」
伸枝は、さり気なく答えた。
「何か好き嫌いはありますか?」
「いいえ、食べる事は好きですから…」
幾らか気恥ずかし気に伸枝は答えた。
「そりゃ良かった。飲み物は生ビールで良いですか?」
「はい…」
伸枝は小声で返事をした。
「そうだ、先ずは貴女の名刺入れをお返ししなければ」
そう言って、俊治は自分の上着のポケットから伸枝の名刺入れを取り出し彼女に手渡した。
「すみません、私の為にわざわざお時間を取らせて…」
「気にしないで下さい。私も丁度時間を持て余していた所だから…それにしても、こんな早い段階で貴女と再会するとは思ってもみませんでしたが」
「本当に、私も…!」
伸枝は嬉しさを隠し切れない表情で答えた。
「取り敢えず、今日は再会を祝して軽く乾杯と行きましょうか」
「はい、お招きに預かり有難うございます。今日はどんなお話が聞けるのか楽しみにして来ました」
「まあ、これと言って大した話もないですが…学生時代はバイトが忙しかったですからね」
「バイトって、まさか新聞配達ではないですよね」
「さすがに新聞配達は卒業していましたね。コスト・パフォーマンスが良くないですから…もっぱら家庭教師のバイトで生計を立てていましたね。途中には学習塾の講師なんかもやりましたが、意外と拘束時間が長いので半年ほどで辞めましたけど…」
「相変わらず苦学生の生活が続いていたのですね」
「そんなに大袈裟な話でも無いですよ。家庭教師の割高なバイトは幾らでもありましたから…」
次回に続く
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