霜月の夕暮れ(79)

伸枝はにこやかに頷いて、
「そりゃそうですわね、東大生だったら家庭教師のバイトなら掃いて捨てるほどありますでしょうね」
「ところが必ずしもそうでも無いんですよ、それが…」
彼女は不思議そうに尋ねた。
「あら、それはどうしてですの?」
「貴女は、こんな言葉をご存知ですか…『名選手名監督にあらず』と言われる様に学業の成績の良い人間が、優秀な家庭教師に成れるとは限らないのです。特に天才肌の人には、この傾向が強いと言われています。つまり、こんな簡単な事が何故分からないのか、その『分からない』と云う事がどうしても理解出来ないのです。雪国で育った人間が3才児からスキー板を履いていて、都会の人間がスキー板ではまともに歩けないのを見て理解出来ない様なものかもしれません。例え話が陳腐(ちんぷ)でしたかね」
「いいえ、とても面白い例え話ですわ」
「つまりは『考え方を押し付けない』事ではないかと思います。
過去に実績を上げた人の場合、自分のやり方(だけ)が絶対(正しい)と思いこむ傾向が強いといわれます。
その(自分の)やり方を押しつけようとすることで、相手を潰してしてしまうという結果に導いてしまう危険があるのです。
『俺はこのやり方で成功したから、これが正しい方法なんだ!』
そんな風に思いこんでしまっている東大生もいるのです。
また、実績を上げた人の中には、理論的な人もいれば直感的(感覚的)な人もいるでしょう。
理論的な人では理屈っぽくなり、直感的な人では抽象的な言い回しとなることが多くなります。
いくら自分が実績を上げたからといっても、同じやり方を押しつけたところで、誰もが同じ実績を上げられる訳ではありません。
ここで大切になってくるのが、自分にとって、マッチしたやり方が、他人にもマッチするかどうかは、分からないということです。
この人に合った方法が、あの人にも合う方法なのかは分かりません。
これはどこまで行っても個別のケースという事になります。
私の持論ですが、
物事において正しいやり方はいくらでもあるが、自分に合ったやり方はそれほど多くは無い。
如何にそれを早く見つけることが出来るかが、努力であり結果であると思うのです。すみません、最初から堅苦しい話になってしまって…」
そう言って俊治はビールを一気に飲んだ。伸枝も少しだけ口を付けて、
「いいえ、とても興味深いお話ですわ」
俊治は少し照れながら、
「若い女性を目の前にして、こんな理屈ぽっい話しばかりで…こんな調子だから僕はいつもモテナイですよ」
と、弁解じみた言い方をした。
伸枝は瞳を見開いて、
「山口さんがモテナイですか…そんな事は信じられませんわ。きっと、理想が高すぎるじゃあないですか」
「理想なんて少しも高くはないですよ。自慢じゃあないですが彼女いない歴は20数年ですから…」
「本当に…それなら私だって山口さんの彼女に立候補出来るのかしら…ご免なさい、はしたない事を申し上げて」
そう言いながら伸枝は顔を紅くしていた。
次回に続く
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