霜月の夕暮れ(80)

確かに少しばかり理屈っぽいい所はあったが、自分の学歴を誇る様な所は全く見られない。性格もさっぱりしていて冗談もかなり言う。どうして、そんな彼に一度も恋愛体験がないのか不思議で仕方がない。
「山口さん、少し失礼な事を聞いても良いですか?」
「はぁ何でしょうか、改まって。厳しい質問は嫌ですよ」
俊治は幾らか戯(おど)け気味に答えた。そう言われて伸枝は少し腰が引けたが、
「これまでに一度も女性を好きになった事はないのですか?」
「何だ、そんな質問ですか。別に若い女性に興味がなかったと云う訳ではないですが、ともかく僕には時間がなかったのですよ。学生時代だってバイトに明け暮れていましたし、大袈裟に言えば毎日が生きて行く事に必死だったんですね」
「そうだったのでしょうね、良く分かる様な気がします」
そう言って伸枝は深く頷いた。
「それにね、貴女の様なチャーミングな女性と巡り会う機会もなかったし…」
真顔で俊治は、そう言った。
「まあ、山口さんってそんなにお口がお上手だったんですか」
「いえ、ただ感じたままを言っただけですよ。僕がそんな口先だけの人間に見えますか!」
「そうは申しませんが、私も一応は年頃の女性ですから山口さんにそんな言い方をされれば、その気になるじゃあないですか」
「その気って…?」
「また、そんな事を仰って…それ以上のイジワルを言うと、わたし泣きますよ」
「弱ったな、僕のどんな言い方が貴女をそんなに怒らせたのかな?」
「怒ってなんかいません。ただ少し哀しい気持ちになっただけです」
「やっぱり怒っているみたいですね…何とか機嫌を直してくれませんか?」
「山口さんが、ご自身の言葉に責任を取って下さるならば…ね!」
「責任って…?」
「女の私から言わせるのですか?」
「でも、僕にはどうも分からない」
伸枝は瞳に涙をためながら、
「それなら、恥を承知で言います。私に好意を感じていると考えても良いのでしょうか…それとも私の一人勝手な自惚れなんでしょうか?」
まるで俊治に挑みかかる様に尋ねた。
「あゝ…それでご気分を損ねていたのですね。やっと意味が分かりました。わずか2度しかお会いしていない貴女にこんな事を言うのも非常識だとは思っていますが、正直に申し上げれば好意以上の感情を持っています。そんな気持ちがあったからこそ、たかだか名刺入れの事で貴女を呼び出したりしたのでしょう…」
伸枝は畳の上に涙をポタポタとこぼしながら、
「山口さん、本気にしても良いんですね」
と、伸枝はさらに問いかけた。
「田村さん、こんな僕で宜しければ個人的なお付き合いをお願いします」
そう言って俊治は深々と頭を下げた。伸枝の頭の中は真っ白になっていたが、それでも慌てて
「何の学歴も無い私ですが、それでもお付き合い出来るのですか?」
「女性は生い立ちと存在そのものが学歴に勝ると、僕は考えています。それに貴女の家系から比べると僕の家系の方が、ずっと貧しいじゃあないですか」
そう言いながら、俊治は伸枝の手を軽く握った。男の大きな手と温もりを伸枝は強く感じ「めまい」にも似た高揚感を味わっていた。
その2年後に彼等は結ばれた。
次回に続く
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