霜月の夕暮れ(82)

伸枝が押入れの中から急ぎ掃除機を運んで来た。和幸は掃除機先端のノズルを取り替え、口腔内の奥にこびり付いている餅の残片を吸い取る努力を幾度ともなく繰り返した。わずか10分ぐらいの出来事であったが静子は、一人茫然(ぼうぜん)と立ち竦んでいた。
「こんな事が起こるのだ…!」
目の前の事態に、静子は限りないショックを受けていた。
ともかく代用品の掃除機で喉に詰まった餅の大半は取り除けたが、所詮(しょせん)は素人の荒療治なので吉子の口腔内は傷だらけになってしまった。それに喉の奥に詰まった餅の残片が完全には除去されたとも思えない。
元旦ではあるが、このまま自宅で様子を見る訳には行かないと、子供たちの意見は一致した。だからと言って今から何処の病院に連れて行ったら良いのか見当もつかない。静子が、
「救急車を呼んだら…」
と言い出した。確かに吉子はグッタリしていて、血の気も失せた様な顔つきである。ここは素直に救急車を呼ぶべきだろうと云う事で3人は一様に頷き、伸枝が受話器を手にした。救急車は15分程でやって来た。救急隊員は慣れた手つきでバイタルサインをチェックした。
血圧158/96、脈拍数112とやや多い。SpO2(経皮的動脈血酸素飽和度)は88%と低い。救急隊員の一人が仲間に向かって呟いた。
「未だ餅が幾らか気管支にでも詰まっているのか、誤嚥性の肺炎を起こしているかのどちらかだろう」と言いつつ、
「元旦ですから、これから至急に受け入れ先の病院を探してみますが少し手間取るかもしれません」
と説明し、それから救急隊員は幾つもの病院に電話をかけたが、なかなか受け入れ先の病院は見つからない。その間にも吉子の呼吸状態は悪化し、SpO2は80%を割り込んだ。救急隊員は酸素マスクを吉子に取り付け酸素流量を2Lから4Lまで上げ、何とかSpO2を92%に保った。
10数ヶ所の病院に診察依頼をして台東区上野で、呼吸器内科の医師が当直している病院が見つかった。正月のこの時期に呼吸器内科の専門医を探し当てるのは、かなりの苦労であった。隊員達の間に安堵の色が見えた。
「それでは、これから上野まで患者さんを搬送します。家族の方も誰か同乗して下さい」
と言われ、伸枝が同乗する事にした。これまでにも吉子の事では救急車の世話になった事があったので、伸枝の仕度は手慣れていた。
救急隊員が電話で病院を探し回っている間に、入院を覚悟して必要な準備はすっかり整えておいた。
田端の実家を出たのは2時半であった。吉子が餅を詰まらせてから1時間以上も経っていた。正月の街を救急車はサイレン音も喧(けた)ましく疾走する。車は急げば急ぐ程に揺れ、伸枝の気持ちを不安にさせた。吉子は殆んど意識を失いかけていた。伸枝の胸の内では不吉な予感が拡がって来た。
たかだか餅を詰まらせただけなのに、これ程の事態に発展するとは予想外だった。
「お母さん、頑張って。お願い、こんな事で負けないで…」
伸枝は自分自身を励ます思いで、吉子に声をかけた。しかし、母は無言であった。
次回に続く
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