霜月の夕暮れ(83)

病院に着くや、救急専用口から直ぐに吉子は医師と看護師の手に委ねられた。酸素マスクを付けたまま胸部レントゲンとCTが撮られ、血液のガス分析も行われた。胸部レントゲンでは左肺野に炎症所見が認められ、CTでは左上葉に無気肺像と胸水の貯留が確認された。
当直医師に伸枝は呼ばれた。
「左気管支に餅の残片が詰まっている危険性があります。気管支鏡で除去するしかないのですが、現在の呼吸状態だと気管支鏡の使用そのものが困難です。だからと云って放置すると、さらなる呼吸不全の悪化が心配されます」
「他に打つ手はないのですか?」
伸枝は悲痛な思いで医師に尋ねた。医師は淡々と答えた。
「気管切開と云う方法もあります。これですと喉仏の下部に穴を開けますので、気管支の餅は取り易いですし気管支鏡を直接に使用するよりは危険度は少ないかもしれません」
「気管切開って、喉から穴を開けるのですか!…そんな事以外に良い方法はないのですか?」
伸枝は追いすがる様な声で医師に迫った。
「申し訳ありませんが、そんなに考えている余裕はないのです」
医師は幾らかイラ立った返事をした。
「たかだか餅ぐらいの事で、そんな大変な事になってしまうのですか?」
「餅と言っても、ご高齢の方は唾液分泌量が大幅に減少していますから、この様な事故はかなり多いのです。それはともかくとして気管切開の方はどうなさいますか、何とか許可を頂けませんか?」
伸枝は医師に追いつめられた感じで、
「分かりました。後は先生のご判断にお任せします」
と、仕方なく答えた。
「それでは承諾書にご署名を頂ければ直ぐに気管切開にかかります」
そう言うなり医師は即刻、気管切開の準備を看護師に指示した。伸枝から承諾書を受け取ると、医師は処置室へと去って行った。伸枝は病院の廊下で待ち続けるしかなかった。
「何と言う正月だ!…未だこれから先も多くのトラブルが母の身には起こるのだろうか?」
廊下の椅子に座りながら、伸枝は一人焦点の定まらない不安に駆られていた。母の認知症問題が出て2年2ヶ月、幾らか疲れを覚えて来たのかもしれない。
1時間半ぐらいして、先程の医師が現れた。
「無事に気管切開は終了しました。左気管支に残っていた餅の断片も綺麗に除去出来ました。後は餅に原因すると思われます誤嚥性肺炎と心不全の治療に専念するだけです。3~4日間はICU(集中治療室)で経過を診させて頂きます。ここまでで何かご質問はありますか?」
「先生、これで母の命に別状はないのでしょうか」
「明確には未だお答えしにくいのですが、恐らく大丈夫だと思います。ICUから一般病室に移れた時には、病状が好転した時だとお考え下さい」
「分かりました。色々と有難うございます。今日これから私はどうしたら良いのでしょうか?」
「今日の所はお帰り下さって構いません。何かあればご自宅に直ぐお電話いたします。ケータイか自宅の電話かのどちらかは必ず通じる様にして下さい」
次回に続く
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