霜月の夕暮れ(84)

夕方7時、伸枝は疲れた足取りで田端の実家に戻った。静子と和幸が同時に、
「お帰りなさい。それでお母さんの具合はどうだった」
と、幾らか忙(せわ)しなく彼等は尋ねて来た。この間、伸枝は電話一本も入れてはいなかった。どうせ吉子の世話は何時だって自分一人の肩に重くのしかかっているのだから、今更妹夫婦に相談する事もないと考えていたのだ。
それでも心配顔で待っていた彼等に何の説明をしない訳にはいかない。重い口を開けて一通りの説明はした。気管切開と云う言葉で静子は、「まあ!」と驚きの声をわずかに上げた。そして伸枝を問い詰めるかの様に、
「お姉さん、気管切開ってどんな事か知っているの。どうして、そんな大切な事を誰にも相談しないで勝手に決めたのよ」
静子としては珍しく、かなり攻撃的な言い回しだった。全身が鉛の様になっていた伸枝であったが、妹の予想外の詰問には神経を逆なでにされる様な怒りを覚えた。
「気管切開がどうだって言うの、あんなに切羽詰まった状況で電話であんたなんかに、のんびり説明している暇なんかある訳ないでしょう」
その、「あんたなんかに」と云う言葉に今度は静子がカチンと来た。
「そりゃ今までお母さんのお世話は全部お姉さんに任せ切りだから、私には何の発言権はないかもしれない。それでも気管切開はあんまりでしょう。お母さんは未だ70才代なのよ、そんなお母さんの認知症がどんどん悪化してしまう気管切開の選択は私には理解が出来ないわ。お姉さん、そこまで考えていたの。その上の決断だったら私は何も言いませんが….」
伸枝には、この時点で静子が何をそんなに怒っているのか理解出来なかった。
「気管切開と認知症の悪化が、どう関係するって言うのよ」
伸枝は冷静に聞き返した。静子は幾らか勝ち誇ったかの様な調子で
「やっぱり理解していないんだ。私はね、近所で気管切開をして寝た切りになっているお年寄りを一人知っているのよ。その人は何か話す度に喉から息が漏れて『フーガ、フーガ』と声がちゃんとした言葉にならないのよ。そんな調子だから話す事が段々と嫌になって、その内に何も話しをしなくなってしまったわ。それでも良いってお姉さんは言うの…」
確かに咄嗟(とっさ)の事で、伸枝はそこまで考えが回らなかった。だからと言って、あの場合にどんな選択肢があったと言うのだ。そんな伸枝の置かれた苦境も知らずに、妹は自分勝手に言いたい事だけを言っている。妹の言い分はその通りかもしれないが、だからと言って、そこまで責め立てる事はないだろう。
「そんなに言うなら、あんたが救急車に乗り込んでお母さんの世話をすれば良かったじゃあない。あの時にあんたは何をしていたのよ。ただ案山子(かかし)の様に突っ立っていただけじゃあないの。人に何もかも押し付けておいて文句だけは一人前に言うのね」
そんな言い方をされて静子も黙ってはいなかった。
「いくら姉だからと言って、案山子の様に突っ立っていたと言うのは、あんまりじゃない!」
「じゃあ、どう言えば静子は満足なのよ」
二人とも興奮していた。そこに和幸が割って入った。
「静子、お前も言い過ぎだ。お姉さんも少し落ち着いて下さい」
次回に続く
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