霜月の夕暮れ(87)

2ヶ月間の老人保健施設でのリハビリで吉子のADLは大幅に向上した。毎月水金に実施される20分間のリハビリ時間中、少し離れた場所から伸枝は片時も目を離さず一挙一動に注意を払っていた。リハビリ・スタッフの邪魔にならない様にしながら…それはまるで実習生でもあるかの様な慎ましやかさであった。
車椅子からの立ち上がり動作、平行棒内での脚の振り出し方、転倒防止の腰の支え方、手引き歩行の要領など学ぶべき事は数多くあった。
それらの一つ一つをメモにして伸枝は自分の頭に刻み込んでいった。それ以上に言語訓練のリハビリを熱心に学んだ。気管切開部には包帯をして、その上にスカーフをして切開部その物が人目に付かない様な工夫を凝らした。この工夫は大成功だった。吉子自体が気管切開部の負い目から解放された。美容効果も大きかったし、切開部からの息の漏れが少なくなり発語が日々スムーズにもなって来た。
気管切開部を指で押さえなくても、「の…ぶ…え…」 
の発語も明確になって来た。ともかく一にも二にも褒め上げる事だ。心のそこからリハビリの効果を母子共々に喜び合う事だ。
生まれて1歳児になるかならないかの我が子がヨチヨチ歩きをし出した時の、あの感動に似ているかもしれない。そこには何の利害損得もない。ただ無性に嬉しい。そして、その様な感動は1歳児であろうと認知症の高齢者であろうとも同じ様に伝わるものだ。
人間と云うものは、視覚、聴覚、言語、認知機能(低下初期)などの何かが失われた場合にはその機能を補充する為には別の何かが鋭敏になって来ると言われる。その分だけ感性が鋭敏になって来るらしい。
その様な観点から考えると、ただビジネス的にリハビリを実施するのと、大きな情愛を持ってリハビリを実施するのでは目に見えない差が出て来るかもしれない。
基本的に私たちは感情的な動物なのだ。それは乳幼児であろうと認知症患者であろうとも変わりはない。それぞれの知的レベルでの感じ方に違いはあるだろうが…
いずれにしても、認知症患者を人間的には一歩下がった人間であると云う考え方は非常に危険である。一般的に言って社会的に健康的であると思われている人達でも精神面の一部が欠如している人間が殆んどだ。それは対人恐怖症だったり、コミュニケーション障害が強かったり、ささやかな所では「白衣高血圧」があったりとか、日常生活に支障は来たさないものの、それなりの問題は抱えているのだ。何を持って異常とか、障害と云うのかを定義づけるのは難しい。
要はバランスの問題なのだが、現実にはバランスの良く取れた人間を探し出す方が難しいと思うのだが。何か少し変な所を持っている人達が殆んどではないだろうか。ただ多くの人達は、自分のそんな欠点の様なものに気づいてはいないだけだろう。
つまり、認知症のリハビリは病気と云う概念よりは障害と捉えるべきと思うのだが。何故そんな言葉の一つにこだわるかと言えば「障害」と考えた方が無意識の差別化が払拭され、対人間同士の関係でリハビリ・スタッフが認知症患者さんに、より良い対応が出来る様な気がしてならないからだ。
次回に続く
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