霜月の夕暮れ(88)

2015年3月16日の月曜は曇り空で、外はまだ寒かった。前日の日曜日には母を迎える為に、伸枝は一日中家の掃除をしていた。吉子にとっては3ヶ月ぶりの我が家なのだ。エアコンと加湿器のフィルター掃除にも念を入れた。それ程大きな家でもないが、丹念に掃除を始めると切りがない。午前中に3時間、午後に3時間をかけて母の寝室とリビングの掃除、台所、風呂場そしてトイレの掃除だけは何とか済ませた。玄関前も掃き清めた。その後はスーパーに出かけ食材の買いだめに精を出した。スーパーから帰ると時計の針は7時を指していた。さすがに疲れを覚えたが、浴槽にお湯を入れ、台所に戻った。自分一人だけの夕食なので冷蔵庫の中にある余り物だけで適当に済ませた。食事を終えて風呂に入りかかった所で電話が鳴った。妹の静子からだった。
「お姉ちゃん、昨日はご免ね」
と、言って来た。昨日ちょっとした口ゲンカをしたのだ。今日の実家の掃除を少し手伝って欲しかったので、その事を頼んだのだが前から約束してある仕事があって、掃除の手伝いには行かれないと断って来た。その言い訳の電話であった。妹の静子は話を続け…
「それで、明日お母さんの退院は決定なの」
「何を言っているの、そんな事は昨日言ったばかりじゃない」
伸枝は少しばかり突っ慳貪(つっけんどん)な言い方をした。
「まあ、お姉ちゃんそんなに怒らないで。私だって申し訳ないと思っているのよ、何もかもお姉ちゃん一人にやらせて…それでね、明日のお母さんの退院には私も何かお手伝い出来ないかと思って電話したのよ。退院は何時頃なの?」
そう、下手(したて)に静子は聞いて来たが風呂に入ろうと思って洋服も脱ぎかけていた。電話で長話をするには身体が少し寒く感じた。そんなタイミングの悪さもあって伸枝はイラ立って来た。
「良いわよ、何時も忙しいあなたなんかに頼む事なんか何もないわよ!」
そう言うなり、伸枝はそのまま電話を切ってしまった。そして一人ゆっくり浴槽の中で身体を温めた。身体の温もりと共に気持ちも落ち着いて来た。静子への電話の応対にも少しばかり後悔が出て来た。何もあそこまで冷たくあしらう事もなかったと考えたりもしたが、今更妹に謝罪する気にはなれない。明日の退院ぐらいは自分一人で何とでもなる。吉子は杖歩行も一人で上手に出来ていたし、静子の手など借りなくても自分の運転で家まで連れて帰るなんて別にどうって事もなさそうだ。
それよりは今日の掃除を手伝って欲しかったのに、厳しい仕事は拒否して楽な仕事だけを選んでいる様な感じがしてならない。そんな思いが強かったものだから、幾らか高圧的な拒否となってしまった。
そして月曜の朝10時過ぎに、幾人かのナースと介護士に見送られ老人施設を後にした。車の助手席に母を丁寧に導き座らせ、ゆっくりと車を走らせた。実家まで10分もかからないのだ。
「お母さん、少し公園でも散歩して行く?」
と、母に尋ねたが…
「良いわよ、外は寒そうだから早く家に帰ろう」
と、かなり明確な発音で答えた。
この2ヶ月間で気管切開部もかなり塞がり言葉の使い方もずいぶんとしっかりして来た。
次回に続く
関連記事

コメント