霜月の夕暮れ(89)

すぐに吉子の目に懐かしい我が家が見えて来た。伸枝は車を玄関前で停め、母の手荷物を家の中へと運び入れ、その後は母を見守る様にして玄関の框(かまち)に座らせた。そして急ぎ車を車庫に入れ母のそばに戻った。わずか5分間ぐらいの時間であったが…
「お母さん、寒くはなかった」
と伸枝が声をかけたが、母は平気そうな顔をしていた。
「じゃあ、お母さんゆっくり立ち上がってリビングに行きましょう」
そう言って、伸枝は習慣になっているスリッパを母の前に置いた。田端の古い家は未だ床暖房の設置はしていなかったので、廊下の板の間は冷たかった。杖を支えているゴムの部分は雑巾で汚れを拭き取り、母に手渡した。伸枝は母と自分の靴を下駄箱に仕舞い、台所に行ってお茶でも入れるつもりでいた。下駄箱から立ち上がり母を見上げたその瞬間、吉子はスリッパで足を滑らせ「ドン!」と云う音と共に尻もちを着いた。
伸枝は「ハッ…」としたが、
母はすぐに痛い、痛いを連発しはじめた。
「お母さん、大丈夫。何とか立ち上がれそう?」
そう優しく尋ねたが、吉子はしかめ面をするばかりで立ち上がる気配は全く見せない。左下肢をさすりながら…
「ここが、痛いの。おお痛い」
と、言うばかりだ。2年前に右大腿頸部骨折を起こした反対側だ。
伸枝は母の傍らに寄って自分の両手で母を何とか立ち上がらせようとしたが、母はただ痛がるばかりだ。
どう考えても骨にひびが入ってしまったと考えるしかなかった。
「何と言う事だ!…今自宅に帰って来たばかりではないか。
天を仰ぎ見て、おのが人生を呪うしかない心境だ。こんな事になるなら妹の静子に来てもらうべきだった。ともかく静子のケータイに電話をしてみるが、留守電になっている。
「全く、いざという時は何の役にも立ちはしない」
母がそばにいなければ、恐らく伸枝は電話器を叩きつけていただろう。一人イラ立っていても仕方がない。吉子をより不安に落としいれるに違いない。そう思って伸枝はどうにか冷静さを取り戻した。先ずは病院に連れて行くべきだろう。しかし、自分の運転では行けそうにもない。
「また救急車の世話にならなければならないのか。今日やっと帰って来たばかりだというのに、一体母の運命はどうなって行くのか!」
伸枝は一人胸の中で叫んでいた。
15分ほどして救急車がやって来た。救急隊員に事情を説明して、近くの整形外科のある病院に搬送してもらった。病院に着いてすぐレントゲン室に運ばれた。
結果は左大腿頸部骨折を起こしていた。担当医は当然の如く手術を勧めて来た。前回の経験もあったので、伸枝は即答した。
「すみません、よろしくお願い申し上げます。入院期間は何日ぐらいになりますでしょうか?」
「そうですね、手術の経過が良ければ1ヶ月ぐらいでしょうか」
「出来ましたら、なるべく早く帰して欲しいのです。これまでにも幾度か入退院を繰り返しているのですが、入院する度に認知症が少しずつ悪化して行くみたいなんです」
「そうかもしれませんね。分かりました、なるべく早く退院出来る様に努力します」
そう言って、医師は率直に頷いた。
次回に続く
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