霜月の夕暮れ(90)

入院手続きを済ませ、伸枝は考えるともなく考えた。
「何時までこんな生活が続くのだろうか!」
無限のアリ地獄で、もがき苦しんでいるかの様な錯覚に襲われた。この2年以上、認知症状が見られて以来どれだけ入退院を繰り返している事だろうか。その度に認知機能が悪化し、伸枝の懸命な努力で何とか持ち直し、そしてまた入院で悪化する。自分の記者としての仕事も断念し、ひたすら母とのみ向き合って来た。それで何か報われるものがあったのだろうか?
自問自答せざるを得ない。
病院から自宅に戻った頃になって、やっと妹から電話が入る。
「お姉ちゃんから留守電に電話が入っていたけど、何か用事…!」
伸枝は最早怒る気力も無く、母の骨折の話をそのままに説明した。
「えっ、また入院になったの!」
「そうなのよ、それで電話をしたって訳…」
伸枝は溜め息まじりに語った。
「何か一年中、入院を繰り返しているのね。これじゃあお姉ちゃんも大変だ」
まるで他人事の様な静子の口ぶりに多少のイラ立ちを覚えたが、口論する気にもなれない。それよりは、この出口の見えない自分の環境から少しでも解放されたい。伸枝の胸の内は、そんな思いで一杯になっていた。
「ねぇ静子、ちょっと相談があるんだけど…」
意識的に笑みを浮かべ伸枝は妹に媚びる様な話し方をした。
「相談って、私に出来る事なの」
幾らか警戒気味に静子は姉の話に耳をそばだてた。
「相談っていうよりは、お願いかな…!」
「お姉ちゃんに願い事を言われたって、私に出来る事なんかあるのかしら…」
静子は不安げ気な声となった。
「そんな大した事でもないわよ。どうせ、これから一ヶ月間はお母さんも入院になるのだから、その間の面倒を静子に頼みたいのよ。その間に私は一週間ぐらい一人になりたいの…少し骨休みがしたいのよ」
「骨休みって何をするの?」
「静子が納得してくれるなら一人旅をして自分の心のバランスを保ちたいの…こんな生活を続けていたら私、お母さんに優しくなれないわ…!」
「そうね、この2年以上もお姉ちゃんがずっと一人でお母さんの世話をしていたからね。分かったわ、今回の入院中は私が面倒を見させてもらいます。一週間に一、ニ度くらい病院に顔を出せば良いのでしょう」
静子は淡々と造作も無いといった調子だった。そんなぶっきらぼうな妹の態度に幾らか不安を感じる伸枝ではあったが、やはり自分にはどうしても一人になる時間が欲しかった。母の事を一時的に忘れる時間が必要だと思った。
バイトと主婦業で忙しい妹であるから、伸枝の様に連日のごとく病院の見舞いに行って母を慰るなんて事は出来るはずもないだろう。しかし伸枝は、この2年以上いつも母の事を考えて少しでも認知症が悪化しないように努めて来た。その自分の苦労がどれだけ母の認知症を改善して来たのかは、この入退院の繰り返しだけを見ていると何か虚しさを感じてしまう。ともかく今の自分は束の間でも母の事から解放され心のバランスを取らなければ、心身共にボロボロになってしまう。
次回に続く
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