霜月の夕暮れ(97)

翌3月27日(金)も天候には恵まれた。伸枝は広島から九州の指宿(いぶすき)に向かった。広島から新幹線で鹿児島中央駅まで2時間20分、そこから指宿まで指宿枕崎線で1時間半、指宿の宿に着いたのは3時半だった。鹿児島の指宿に泊まるのは初めての体験である。宿は指宿白水館に予約してあった。旅行雑誌で目にした、名物の「砂むし温泉」を味わいたかった。湯の町、指宿にて心行くまで温泉三昧に浸りたかった。
これから先の人生で、ここまで贅沢な一人旅を味わえるチャンスはもうないだろう。今回の旅行で伸枝は雑誌記者時代に稼いだ自分の貯金の大半を使う積もりでいた。女一人で稼いだお金だから、それほど多額の貯金がある訳ではない。それでも300万円ぐらいの定期預金はあった。その中の100万円ぐらいは使用する積もりでいた。
女の一人旅で100万円もの散在をする事に幾らかの後めたさを感じない訳にはいかなかったが、妹の静子から見れば途方も無い浪費に映るかもしれない。しかし女も50才を過ぎると、肚が据わって来る。
結局、「この世は成る様にしかならない」と思い定めて来るものだ。思い切り遊べば、それだけ明日への活路も拓けて来るものだろう。伸枝は、そう考えようとしていた。宿の部屋で一休みすると、さっそく名物の「砂むし湯」に行ってみる。
部屋のタオルを持って行き、脱衣場で専用の浴衣を受け取る。
下着を付けずに専用の浴衣に着替えた。ハンドタオルを持って砂場に寝転がると、係りの者が砂をかけてくれる。5分ぐらいで身体がジワジワと暖かくなって来た。15分もしない間に全身が汗だくになって来た。そこで砂から上がり、よく落とす。
そして大浴場へ直行し、浴衣を脱ぎシャワーで砂を流した。サウナ風呂の様な息苦しさはなく、体感温度は50℃程度で砂の重みにほんろうされ、足の先からどくどくと感じる血液の流れが全体まで行き渡って珠のような汗が出て来る。全身の老廃物が排出される様な爽快感があった。砂むし風呂は普通の温泉の3~4倍もの効果があると言われている。
関西なまりの老婦人が二人で、
「ほんまに極楽やなぁ」
と囁いていたが、伸枝もそんな印象を強くした。
そして夕食は豪華な懐石料理となる。少しビールを飲みたかったがウーロン茶にした。毎日こんな料理ばかりを食べていたら、東京に帰って体重を測るのが恐くなると思って、ビールは我慢した。
夕食後は売店に出向き静子に、指宿の土産として「かるかん」と云う和菓子を送った。この旅行中は静子に一切の電話は入れていない。何かあったらケータイに連絡が入るだろうからと、母の事はなるべく忘れる様にしていた。
これからの長い介護生活を考えると、一度は全てを切り離すべきだと決意していたのだ。
翌日の朝食後ブラジルの俊治に電話を入れた。時差が12時間だから、向こうは夜の9時のはずだ。俊治は直ぐに出た。
「あなた、夕食はお済みになったの?」
「あゝ、今ちょうど終った所だ。
俺が勧めた宮島の岩惣はどうだった!」
「とっても素敵な旅館でしたわ。私には贅沢過ぎるわ、それにお値段もビックリ!!」
次回に続く
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