霜月の夕暮れ(98)

電話の向こうで俊治の微かに笑う声が聞こえる様だった。
「まあ、2年間もお母さんの介護生活でお前も随分と大変な思いをしたのだから、それぐらいのご褒美があっても良いだろう」
相変わらず俊治の声は優しかった。
「所で今は何処にいるんだい?」
「はい、昨日から九州の指宿に泊まっています。ここの『砂むし湯』が良いと聞いていましたから」
「そうか、それは良かった。しかし指宿にまで行ったのなら、知覧の方に足を向けてみたらどうだ」
「知覧って、何かあるのですか?」
「まあ、ともかく行ってごらん」
と言われ、伸枝もその気になった。今日は指宿の街並みを散策するぐらいの積もりでいたので、特にこれと云った予定がある訳でもないし…夫の勧めに従ってみる事にした。宿の仲居に知覧の行き方を尋ねてみた。
指宿から知覧までは鹿児島交通バスが便利だと教えられる。バスだと指宿駅から知覧までは1時間程度の所要時間であるとの話であった。
伸枝は指宿駅から10時21分のバスに乗り込み知覧には11時24分に到着した。
知覧、そこにあった建物は「知覧特攻平和会館」であった。
第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料が多く展示されている。
特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧し、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示されていた。
特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであろうと念じて、その若き命を散らせていったのであろう。
この地が出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設したとの趣旨が書かれてあった。何千と云う多くの遺影が飾られていた。中には未だ10歳代としか思えない幼気(いたいけ)な少年飛行士の写真もかなり見られた。
それら若き特攻隊員の遺書の一枚一枚に伸枝は、しばし釘づけになっていた。
「僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。
お母さん、良く顔を見せて下さい。
しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです」
「婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。
あなたの幸を希う以外に何物もない。
徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない。
勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。
あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。
智恵子。会いたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑って往く」
読む程に、伸枝の目頭が熱くなる。
次回に続く
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