想い出は風の彼方に(1)

浩司にとって、高2直前の春休みは10日足らずだったが厳しかった。同級生の、吉村の父親が急性の心筋梗塞で倒れた為に突然の入院となり、泣く泣く頼まれたバイトであった。吉村の家は酒屋である。
店番ぐらいのつもりでいたが、そんな考えは甘くビールや日本酒の運送が中心の仕事だった。軽トラックの運転は倒れた吉村の父親しか出来ず、リヤカーで運ぶという重労働が強いられた。
何で自分がこんな仕事をしなけりゃならないんだと云う思いは強かったが、小学校時代からの無二の親友と言える吉村に半ベソ状態で頼まれると断りづらかった。
朝早くから夜7時過ぎまで常連の料理屋や飲み屋まで2km以上も、リヤカーを引いて歩くというのは3月とはいえ背中から腰まで汗がしみて来る様だ。1日の仕事を終え、家に帰ると猛烈な空腹感に襲われ、どんぶり飯を4杯以上も食べ母や妹の目を丸くさせた。それでどうやら人心地がついて風呂に入る。風呂の後の牛乳の美味しい事は、この上もない。
吉村の父親は入院後20日目に亡くなってしまい、酒屋は一時的な休業に追い込まれてしまう。春休みが終わる直前に吉村からバイト代として5千円を受け取ったが、何か受け取りにくい雰囲気ではあった。
ただ、その時点では彼の父親は未だ生きていて店の方も細々とやっていた。
「吉村さんの所も大変な事ね。これからどうするのかしら?」
通夜から戻って来た母親が呟(つぶ)やいた。
「誰か親戚の人でもいないのか?」
と、父親が関心なげに尋ねた。
「亡くなったご主人の弟さんはいらっしゃる様ですけど、何処かの証券会社にお勤めしているって話でした…」
「そうか!」
と言った切り、後は何も言わなかった。父親にとっては、どうでも良い話しだったに違いない。そんな事よりは自分の店をどうするかが問題だ。
戦後も19年たって1964年にもなると、日本の景気は急上昇で人手不足が深刻になっていた。
父親は渋谷で居酒屋を三軒経営していたが、この1年余りと云うものは従業員集めに悪戦苦闘していた。
職員募集は店の前に一年中出している店頭募集のチラシだけだが、それだけでも、これまでは人手の確保は何とかなっていた。
「急募 : 年齢不問、月収1万2千円以上。公休、月2日。勤務時間午後5時から午前3時。居酒屋たぬき店主」
最近でも月に一人や二人の応募はあったが、喧嘩早い若者やシンナー中毒の少年などが多く、店でまともに使える人間は少なかった。
そんな折、私が友達の酒屋にバイトに出かけた事に父親は良い感情を持っていなかった。
それでも事情が事情だったので、直接には文句の一つも出なかった。
「居酒屋たぬき」の人手不足は古くから居る店長が人集めに奔走しているだけで、父親自身が何か苦労している訳では無いので、私自身がピンとは来ていなかった。
大体が、父親から店の手伝いを頼まれたとしても私は、
「学校の勉強が忙しい…」
とか、何とか言って居酒屋の手伝いに出かける気持ちにはならなかった。私の母親も自分の息子を夜の居酒屋で働かせるのには反対だった。
次回に続く
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