想い出は風の彼方に(9)

翌朝は礼を言って吉村の家を出た。私服のままでは学校にも行かれず、近くの図書館に行って勉強をした。志望する大学の過去問に挑戦する。英語の問題が、かなり難解だ。サマセット・モームの長文である。分からない単語が随所にある。英和辞典を片手に2時間以上もかけて何とか和訳する。模範回答を読み返すと、かなりの誤訳が目立つ。このモームの「人間の絆」は、モーム自身が医者になって書き上げた自伝的小説である。私の現在の心境と幾らか相通じる所もあって、途中からは過去問に取り組むと云うよりは自己陶酔型の意訳(異訳?)が多くなっている。私の最も悪い癖が露骨に出ていた。試験問題に立ち向かっている間に、何時の間にか文学作品の世界に入り込んでしまうのだ。英語、現代国語、古典などの解釈でも、この性癖が時に出てしまう。
その結果、驚くほど適切な回答に導かれる事もあれば、問題の趣旨とまるで関係のない意味不明の回答を書いてしまったりする事もあった。
模範回答と照らし合わせている間に絶望的な焦りを感じる。
「やはり医者に成りたいなどと云う思いは、この自己陶酔型の性癖の為せる業(わざ)か?」
父親の言っている話も、それなりの的を得ているのかもしれない。
自己嫌悪を味わいながら図書館を出る。それでも何故か空腹感だけは人並みに感じている。そんな自分を呪いながらも、中華料理屋に入ってラーメンと餃子を食べる。
昼食を済ませて考える、さて今夜はどうするかを…。期末試験は終了しているので、このまま学校に行かなくても数日間で冬休みに入ってしまう。まさか出席日数が足りないなんて事は起きようもない。
公園のベンチでしばらく座っているが、北風が強く寒さが厳しい。
当時、高校生の私には一人で旅館に泊まると云う発想は未だ持ち合わせていなかった。
あれこれ考えた挙句、下北沢の叔父の家に行ってみる事にした。父親の二番目の弟で、中3と中1の子供二人がいる。父親とは碁敵で週に一回ぐらいはどちらかの家で夜を明かす事もある。その意味では今夜にも父親と鉢合わせをする危険がある。そうは言っても他の親戚は皆んな遠くに離れている。
前もって下北沢の家に電話で、探りを入れてみた。叔母が直ぐに出た。
「あれ、浩ちゃん。いま何処にいるの?…昨晩から何度もお母さんから電話がかかって来て、皆んな心配しているわよ」
「あの今晩、泊まっても良いですか?」
「良いも悪いもないでしょう。直ぐにいらっしゃい!」
「でも、僕が行くまでは父と母に何も話さないで下さいね」
「分かったから、ともかく早く来るのよ。ご飯はちゃんと食べているの?」
「はい、大丈夫です。叔父さんは何処にいるのですか?」
「心配はないわよ、仕事で出かけているから。それに浩ちゃんのお父さんも今晩は家に来る予定はないから…」
叔母は私の不安を見抜いて、安堵の言葉を投げかけてくれた。下北沢の家に着いたのは4時過ぎだった。玄関の呼鈴(よびりん)を押す間も無く叔母が出て来た。
「さあ、家に上がって…何か食べる」
と、叔母は心配そうに私の顔を見た。
次回に続く
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