想い出は風の彼方に(12)

4月からは都内の予備校に通い始めた。1クラス50名で6クラスある。ABの2クラスが国立医学系で、私はBクラスだった。Aクラスに入ると、国立医学部への合格率はかなり高くなる。毎週の模試で2カ月毎にクラス変更がなされた。
授業は8時半からだが、前から2列目ぐらいに何とか席を確保するには7時半には教室に入る必要があった。それでも4月中は7時50分ぐらいでも2列目の席に割り込む事が出来たが、6月になると7時半でも3列目より後になってしまった。私たち団塊の世代は、受験から就職、結婚に至るまでずっと勝ち抜き戦であった。全国で医学部の募集定員は現在の半分ぐらいでしかないのに、受験生は逆に倍以上もいたのだから競争は激化する一方であった。
6月になって、私はやっと念願のAクラス入りを果たした。何か医学部合格の予約チケットを手にした気分であった。7月からの夏期講習も何とか乗り切ったが、この頃から私の中で気の迷いが生じた。3年間の男子校から男女共学の予備校通いとなり、若い女性への免疫力が欠如していた私は麻疹にかかってしまった。
恋と云う麻疹は数ヶ月間も、私の学習意欲を低下させた。相手はBクラスの歯学部を目指していた小柄な女の子であった。
黛ジュンの「恋のハレルヤ」が流行した時代で、シングル盤のレコードを何度も聞いては目頭を熱くしていた。1ヶ月以上もラブレターを幾度となく書いては破り捨て、溜め息を漏らす日々を送っていたのだ。
当然の如く、成績は落ちてまたBクラス入りとなってしまう。数学の問題集を脇に退(ど)けて、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やトーマス・ハーディの『テス』などを読みふけていた。初恋とも言える彼女には一言も気持ちを伝えられず、正に「恋に恋をしていた」のである。
そんな私に喝を入れてくれたのが癩病歌人、明石海人の「歌集白描」にある詩の一節であった。
《癩は天刑である
加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽(おえつ)し慟哭しあるひは呷吟(しんぎん)しながら、
私は苦患(くげん)の闇をかき捜って一縷(いちる)の光を渇き求めた。
― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない ―
そう感じ得たのは病がすでに膏盲(こうこう)に入ってからであった。
齢(よわい)三十を超えて短歌を学び、
あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、
己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、
積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、
肉身に生きる己れを祝福した。
人の世を脱(のが)れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、
明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあった》
10月の国語の模試にあった一文だが、この詩に触れて自分の悶々とした数ヶ月間が、何と甘ったれた迷いであるかを悟らされたのである。
次回に続く
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