想い出は風の彼方に(13)

癩病はらい菌と呼ばれる菌によって引き起こされる病気の事で、このらい菌を発見した医師の名前がハンセンなのでハンセン病と呼ばれている。どんな病気なのかと言えば、皮膚や神経を侵す重篤な病気で日本では1970年にこの病気は制圧されている。
それ以前の時代、有効な治療方針が確立される前は隔離療法が一般的で深刻な差別化社会が生み出されていた。
この癩病歌人、明石海人(本名:野田勝太郎)は沼津市に生まれ、沼商から師範学校をへて、教職に付いて結婚をし、長女が生まれた。これからという26歳の時にハンセン病を発病、名を捨て家族もすて(素性を隠し)明石楽生病院から長島愛生園での療養生活が強いられた。32歳で長島の地に来た海人はかなりの病状悪化にもかかわらず、短歌を勉強し、34歳ごろから短歌を発表しその才能が開花し、歌集「白描」を世に出した年の昭和14年、37歳の短い生涯を閉じてしまう。
10月の模試の解説で、国語の教師からこの薄命の歌人の生涯を聞かされ、私は再び初心に戻って猛勉強に取り組んだ。
12月に入り再び私は、Aクラス入りを果たした。しかし、8月前後の数ヶ月間にわたる私の中だるみを目にしていた父は、何処かで私の生来の気質に幾らかの不安感を抱いていた。私もこれ以上の予備校生活を続ける気力が少し萎え出していた。
本当の意味で未だ苦労を知らない私には、甘えも残っていた。そんな甘えを母親にそっと囁いた。
「滑り止めに私立の医学部を一つは受けさせて欲しいと…」
母は父に相談した。相談と云うよりは哀願に近かった。そんな母の甘さを知り抜いた私の作戦は、半ば成功したかに見えた。
数日後に父から呼びだされた。
「お母さんから、私立医大を受験させて欲しいと言っていると聞かされたが、お前の本音はどうなんだ。初めの約束とは違うな。
自分が志望する医学部だから、親には経済的負担をかけない公立の医学部に絶対に行きますと言ったのは、誰だ…早くも挫折したのか?」
私は返す言葉もなく黙って首(こうべ)を項垂(うなだ)れていた。ここで父の雷が落ちるものと覚悟を決めていた。しかし案に相違して雷は落ちなかった。
「まあ、この辺がお前の落ち着く先だろう。俺が考える程にお前は努力していた。滑り止めに私立医大受験は許す」
父がここまで妥協してくれるとは考えもしなかった。
「お父さん、あ…ありがとうございます」
私は興奮の余りに少し吃(ども)ってしまった。父は私のそんな狼狽(うろた)えるさまに苦笑いを浮かべていた。
「但しだ、俺の方にも条件が一つある」
「条件ですか?」
そう言って、私は恐る恐る父の顔を見上げた。
「あの、どんな条件なんでしょうか?」
「お前が私立医大を受ける代わりに、私立の商学部も滑り止めに受けるという条件だ。私立医大だからと言って確実に合格するという訳でもないだろう。その私立医大も駄目だったら医学部志望は諦めろ…これが最大の条件だ!」
次回に続く
 
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