想い出は風の彼方に(18)

ともかく父のスパルタ教育は激しかった。私は元来が左利きだったが、この矯正の仕方も半端ではなかった。5才頃から食事の度に左手で箸を握ろうとすると、その左手を散々に叩かれた。その為に父の前では怖くて食事も満足に取れない事が半年ほどは続いた。もちろん鉛筆の持ち方にしても左手を使う事は絶対に許されなかった。
そんな父親の努力が実って、小学校に上がる時分には何とか右手で字が書けるようになっていた。自分の名前が書ける程度の事でしかなかったが。
4月、晴れて大学入学式を迎えた。父はどうしても自分が付き添うと言い張った。
「お前は家で赤飯でも炊いて待っていろ!」
と、母に言い捨てて二人だけで出かけた。以前の高校の卒業式と比べると、堂々たる入学式である。これで自分たちは医者になるのだと云う、限りない未来への夢が満ち溢れていた。親と学生たちの顔は皆んな、誇りに輝いていた。中には国立は落ちて私立に来てしまったと云う、幾らか劣等意識を持った人間も数名はいたが、それは一時の敗北感だけであって誰の頭(こうべ)にも未来の道は明るく開けていた。入学式の後は懇親会が催されていて全員が参加した。保護者はビールで、学生はコーラで乾杯した。高揚した意識で父と私は食べ物に、殆んど手を付けなかった。用意された食事はホテルからのケータリングで何れも美味しそうだったが…父は終始ニコニコと上機嫌だった。
二人が家に戻ったのは4時近くだった。母が居間から顔を出して、
「入学式はどうだった?」
と、私たちに尋ねた。
「いゃあ素晴らしかった。お前にも見せたかったぐらいだった」
と、父は嬉しそうに答えた。自分が母を除(の)け者にした事はすっかり忘れている。居間で母に出されたお茶を飲んでいたが、突然父が思い出したかの様に私に向かって話し出した。
「浩司、お前も今日からは立派な大学生だ。自分の努力で望み通り医学部にも合格できた。その事は俺も認める。言うまでも無い事だが大学と云うのは勉強する為に行く所だ。二十歳を過ぎても酒やタバコは断じて許さないから、そう心しろ。大体が親の金で大学に行かせてもらっている間は酒やタバコなんて、とんでもない話しだ。
そんな事は自分の金で稼ぐ様になってする事だ、分かったな!」
父は一人タバコを吸いながら、私にそう訓戒をたれた。
「それなら、あなたもタバコを止めたら。どっちにしたって健康には良くないでしょう。先ずは父親から見本をお見せになったら…」
そう横から母が口を出すと、
「お前は黙ってろ。これは男同士の話しだ」
と言って、母の顔を睨みつけた。
「男同士ね…」
と、独り言の様に言って母は台所の方に去って行った。
「ともかく、余計な事は考えずに勉強する事だ。大人が一生懸命に働いて家族に飯を食わせる様に、大学生はただ勉強して社会人として役に立つ様になるため努力する事だ」
「はい、分かりました」
そう答えるしか、私にはなかった。
次回に続く
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