想い出は風の彼方に(20)

大学の授業は、語学が数多く大変だった。昨今の医学部と違って当時は教養課程が充実していた。語学は英語、ドイツ語、ラテン語が必須で、フランス語とギリシャ語が選択であった。歴史、哲学、国語、物理、数学、政治経済などの教養科目もかなり豊富にあった。
医学部に入ったと云うよりは、通常の総合大学の授業内容と変化がなかった。
予備校時代から、英語の習得には英字新聞を読む習慣を身に付ける事が最大の近道だと、散々に予備校教師から聞かされていた。そんな理由から18才後半から毎日、英字新聞を読む事が日常化していた。語学と云うものは一つの言語をしっかりと身に付けてしまうと、そこから派生的にドイツ語、ラテン語と苦もなくマスター出来る傾向が強い。特にラテン語はヨーロッパ言語の根源であるから、それを習得する意味は大きい。
さらに哲学は自然科学の中心で、人類叡智の源と言えるから哲学的な発想の乏しい人間は、医者と雖もただの職人に過ぎない。
私は元来が大好きな哲学の分野には砂地に水が吸い込まれるように夢中になって行った。
特に夏休みの哲学の宿題は自由タイトルであった。そこで私はセーレン・オービエ・キェルケゴールの「死に至る病」の感想を書きまくった。宿題の領域(30~50枚)を超えて原稿用紙100枚以上は書き上げた。その時の私と言えばキェルケゴールの感想文を書く事に限り無い喜びを覚えていた。宿題とは無縁の世界にいたのだ。
夏休みが終わり、9月も半ばを過ぎた頃、私は哲学の教師に呼び出された。10畳ほどの教室に招き入れられ突然に賛辞の声で迎えられた。
「篠木くん、君のレポートは読ませてもらった。恥ずかしながら私は一人泣いた。未だ日本にもこれだけ哲学の何たるかを理解する青年がいる事を知って…誤字、脱字は少しあったがね。でも、そんな些末なことは問題にならない。君の哲学に対する真摯な態度だ。君はレポートの冒頭に書いているね。
「哲学とは、人間が人間として存在する尊厳の根本であると」
私は、この一文だけで満点だと感じたよ。キェルケゴールの考察には私は教師として君に脱帽するしかない。肉体と精神の相克を実に見事に書き示している。君は以前からキェルケゴールの事はずいぶん詳しいようだね」
「はい、高2の時からキェルケゴールは愛読していましたから…」
教師は感心した様に、
「道理で、こんなに詳しいレポートが書けるのか…私もこの大学で哲学の講義を受け持つ様になって、こんな素晴らしいレポートに初めて接したので、つい年甲斐もなく感動してしまった様だ。悪かったね、忙しい所をわざわざ呼び出したりして…」
「いえ、貴重なご教示を色々と有難うございました」
そうやって意気揚々と教室を出たのは良かったが、外の世界では正に嵐の渦が吹き荒れようとしていた。私の所属する教室では決起大会が開かれていたのだ。それも物理学教師の解雇問題を巡って、クラス中から罵声にも似た意見が交わされていた。
次回に続く
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