想い出は風の彼方に(27)

夏合宿が終わって東京に帰って来たのは8月16日だった。母は私の顔を見るなり、
「何処も怪我はないのかい。ヒグマとは一度も遭遇しなかったのかい。ともかくお前がいない間、お母さんは生きた心地はしなかったよ」
と、質問の雨だった。その日の夕食はご馳走の山だった。家に帰って2日間というもの食事時間以外、私は殆んど眠り続けていた。
まるで全身の力が抜け切った様である。3日目になって、流石に眠っているのも飽きて来た。
久しぶりに吉村の家に出かけた。
真夏のビール商戦で彼は忙しく駆け回っていた。この夏は一際(ひときわ)暑く、一般家庭でクーラーの置いてある家は稀だった。未だ扇風機が主流の時代である。彼の妹だけが夏休みの宿題に悪戦苦闘していた。特に彼女は英語が苦手だった。彼女は私の顔を見るなり、直ぐに助け船を求めて来た。私の頭の回転も本調子ではなかったが、それでも台所のテーブルで英語の宿題を見た。
「綾子ちゃんね、君は何故英語が苦手なのか分かる」
先ず私は、そう切り出した。
「受験英語の基本は英文法と慣用句のマスターなんだ。その肝心のポイントを押さえずに、ただ英語の教科書だけを漫然と見ていても眠くなるばかりだ。英語は全ての語学の中でも例外の文用例が多いのだ。ドイツ語やラテン語の様に定型的なルールで解釈出来る言語とは土台から違うのだ。それがブロークンイングリッシュとも言われる様に、好い加減な言い回しでも変に通じたりするのだ。しかし受験英語はそうは行かない。英語の独特の言い回しを、より多く習得した者が英語の上達を早くするのだ。適切ではないかもしれないが、『have a crush on you』ってどんな意味だと思う。これも単語だけを追いかけていては何の意味か、さっぱり分からないと思うよ。単語だけで訳すと、『君を押しつぶす』なんて言い回しになってしまうけど、実際の意味は『あなたに夢中なの』と解釈するのが正解なんだ。人間の思考の根源は言語だ。英語を学ぶと云う事は、英語を使用する人間の思考形態を学ぶ事に他ならない。
綾子ちゃん、君は以前に大学に行きたいと行っていただろう。その意思は今も変わりはないの?」
「はい!」
綾子は少し恥ずかし気に答えた。
「だったら、何処の大学に行くにしても英語は必須科目だ。明日にでも僕が使っていた英文法と慣用句事例集を持って来て上げるよ。それとも今からでも僕の家に来るかい。未だ夕食までは数時間はあるから、これから英語の特訓をしても良いよ。君さえ嫌でなければ…」
「本当に私が篠木さんの家に突然お邪魔しても良いんですか?」
「お袋は驚くかもしれないが、君みたいな可愛い子が来れば大歓迎だと思うよ」
綾子は内心の喜びを隠し切れない様に、
「それなら、喜んで行きます」
と、今にも飛び出して行きそうな勢いで言った。
「じゃあ、ちょっと電話を貸してくれる。一応は家に電話をして置くから」
「はい、どうぞ。玄関先にありますから…」
「じゃあ、ちょっと失礼して電話を借りるね」
次回に続く
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