想い出は風の彼方に(29)

綾子は訝し気に尋ねた。
「どうして、ですか?
こんな難しそうな本ばかり読んでいるなんて、頭の良い証拠じゃあないですか…」
「それは大きな誤解だよ。難しい哲学書ばかり読んでいる人間なんて、多くの場合は心のバランスが取れていないんだ。だから妙に小難しい自己分析をしたり、他人を煙に巻く様な言語を弄(もてあそ)んだりしたがるのだ。
本当に心優しく、他人を思いやる人は馬鹿みたいに訳の分からない言葉で人の心を踏みにじったりはしないよ」
「ふ~ん、そんな物なのかしら」
「だから、学校の教師だって優秀な人程、生徒には分かりやすい授業をする事に心を砕いているだろう。出来の悪い教師に限って、皆んなが眠たくなる様な教科書の棒読みなんかしているだろう」
「そう言われれば、その通りだわ」
「だから毎日が楽しく、充実した日々を送っていれば、僕の様に偏った哲学書なんか読んだりはしないもんだ」
綾子は驚いた顔になって、
「篠木さんって、そんな辛い毎日を過ごしていたのですか?」
「辛いかどうかの感じ方は、人それぞれによって違うが家庭的には恵まれていなかったかもしれない」
「こんな立派な家にお住まいになっていてですか?」
「立派な建物に住んでいる人達が、皆んな幸福であるかどうかは別問題だよ!
小さなアパート暮らしでも幸福な家庭は幾らでもあるだろう」
「篠木さんの仰る意味は分かりますが、でも貴方の家が不幸せだとは私にはとても理解出来ませんわ」
「単純に言えば、経済的には貧しくても親子が慎ましやかな笑みを忘れず心に温もりを持ち続けられる様な家庭を幸福と言うのではないのかな…」
「そんな家なんて、あるんですか?」
「灯台下暗しって、言うでしょう。僕に言わせれば、綾子さんの家なんかそんな温もりのある暖かい家庭に見えるんだがね」
綾子は驚きを隠せずに…
「私の家なんかが、そんな幸福な家庭に見えるのですか。階段にはビール瓶のケースが幾つもかさなってあるし、酒だるの山でトイレさえ自由に開放出来ない時だってあるんですよ、そんな家の何処が幸福に見えるのか私には分からないわ」
浩司は少し笑みを浮かべて
「そんな狭い家の不自由さが、逆に住む人達の心の接近を容易にしやすくしたりする事だってあるんだ。広い家に住んで、皆んなが個室を持って好き勝手な生活をして話し合う事も少ない家庭が幸せと言えるのだろうか、僕にはそうは思わないけど」
「ふ~ん、幸福って難しいんですね」
「人それぞれに考え方が違うからね。要はその人の心の在り方だと思えて仕方がないんだ」
「篠木さんて、難しい本を読んでいるだけあって、話しの内容も複雑なのね」
「そうかな、ただ隣の芝生は青く見えるって、云うだけの事なんだけど…」
「あゝ、その話しなら学校の授業で教わりました」
そう言って、綾子は少し微笑んだ。
次回に続く
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