想い出は風の彼方に(31)

「さて次に説明したいのは、この文型のパターンをどの様に応用して行くかとの話になるんだが、ちょっと待ってて、その例題を集めた参考書を探して来るから…」
そう言って、浩司は自分の部屋に戻って行った。2階ので6畳間で本を探し出すのは容易ではない。ぎっしりと本が詰まっていて足の置き場もない感じだ。以前から浩司には妙な性癖があって、勉強に熱中し出すと部屋の掃除から始めるのだ。部活や勉強以外に意識が傾いている時は何故か部屋の中がどんなに汚れていても全く気にならない。
だから彼の両親は、その部屋の汚れ具合を見て浩司の意識が何処に向いているのか容易に判断出来るのだ。普段は6畳の本部屋も哲学書、純文学書それらもロシア文学、フランス文学、ドイツ文学その他に整理整頓されている。それが部活前になったりすると、登山道の地図とか、現地案内図、あるいは合宿中の食糧買出しリストなどが入り混じり、本部屋なのか倉庫なのか区別のつかない時さえある。
まして大学受験の参考書なんかは、殆んど処分している。ただ教養課程の間は英語の授業があったので捨ててはいなかった。しかし今回の夏合宿前の混乱で、本部屋は乱雑を極めていた。目的とする英語の参考書も容易には見つからなかった。椅子を持ち出して頭より高い本箱の上まで探してみた。別にそんな参考書などなくても綾子に英文法の基礎を教え込む事ぐらいは、どうって事もないのだが途中からはムキになって探し出した。
どんな些細な事でも一度決意するとすぐムキになってしまうのも、彼の性癖の一つであった。本箱の上の天井すれすれの所に、やっと目的の参考書「高校生の英文法」が見つかった。椅子の上で背伸びして何とか触れる位置にあった。
思いっきり手を伸ばして、その参考書を取り出しにかかった。手が届いたと思った瞬間、彼は椅子から滑り落ちてしまった。10冊以上は積み重ねてあった書物類も同時に落ちて来た。一階の居間にいた綾子にも、かなりの衝撃音が伝わって来た。
「ドカーン、ガタガタ…!」
10数冊の本が落ちる音と彼が椅子から滑り落ちる音の共鳴音だ、それなりの響きは伝わって来る。
しかし打ち所が良かったのか、浩司の身体は余りダメージを受けなかった。部活でも何度か岩場から滑り落ちていたが、避けるべき急所を外す習性は何時の間にか身に付いていたのかもしれない。
綾子が驚いて二階に上がって来た。母の鈴子は台所で換気扇を回しながら夕食の支度に余念がなかったので、何も気づいていなかったようだ。
「篠木さん、大丈夫。一体どうなさったの?」
「いや、恥ずかしい。英文法の参考書を取り出そうとしたら、高い所にあったので滑り落ちてしまったんだ。こんな醜態をさらけ出して、きまりが悪いよ」
「きまりが悪いなんて、お体は大丈夫。腰なんか打つと後で大変だから…私なんかの為にすみません」
「椅子から滑り落ちたぐらいで、何処か痛くなる様な鈍(なまく)な身体じゃないよ。合宿の度に岩場から滑り落ちて十分に鍛えられているんだから…」
「そうなんですか、ワンダーフォーゲルって云うのも結構危険なクラブなんですね」
次回に続く
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