想い出は風の彼方に(35)

「それでも綾子さんは読みたがっているのだろう。良いじゃあないか、読ませて上げたら」
「でも恥ずかしくて、とても女の人には見せられたもんじゃあないよ」
「まあ、そんな頑固な事を言わず本人があれ程頼むのだから、読ませて上げなよ!」
母の鈴子にまで説得され、さすがの浩司も自分の意志を曲げざるを得なくなって来た。
「二人で寄って集(たか)って僕を責めて、もう仕方がないな。綾ちゃんに小説を貸すよ。その代わり小学生みたいな文章でも笑わないって誓えるかい、綾ちゃん」
「そんな…篠木さんが一生懸命に書いた小説を笑うなんて、そんな事は絶対に有り得ないわ」
「分かった、それは信じよう。もう一つの条件は君以外には誰にも見せない事。兄の吉村にもだよ。本当は君にだって見せたくないくらいなんだから…この事を約束してくれるなら一週間だけ、あの小説を貸しても良いよ」
綾子は目を輝かせて、
「今の篠木さんとの約束は必ず守ります。でも、嬉しいな…おばさまの応援もあって、やっと私の願いが叶ったんだもん。今日はラッキーな日だわ」
浩司は少し嫌味気に、
「一体、君は何しに来たの。英語の勉強をしに来たんじゃあなかったの?」
綾子は照れくさそうに笑いながら
「ヘッヘェ、ちゃんと英語の勉強もしますから、今日の所は大目にみて…お願い!」
「全く、君には勝てないな。それにしても時間も時間だから、もう送って行くよ。家の人も心配しているだろう」
鈴子も横から付け加えた。
「あら、8時半も過ぎているじゃあないの…大変お家に電話をしとかなければ。浩司、あなたからお詫びの電話をしなさい」
「何でも僕の責任になるのか…」
そう不満気に呟きながら、吉村の家に電話をかけた。電話には吉村の母が出た。彼はどう説明して良いのか分からず、受話器を直ぐ綾子に手渡した。
「あっ、お母さん。ご免なさい。今日は篠木さん所で英語の勉強教えてもらっていたの。夕食までご馳走になってしまったわ。今、篠木さんのお母さんが電話に出たいって言うから代わるね」
「どうも、篠木の母です。遅くまでお嬢さまをお引き留めして申し訳ありません。ただ今から息子に送らせますので、どうかお許し下さい」
「いえ、お詫びするのは私どもの方で綾子が図々しくも夕食までご馳走に与り恐縮しております」
「何も大層な事は出来ませんが、余りに可愛いお嬢さまで、私までもが年甲斐もなく話し込んでしまいました。もし、宜しければこれからもお嬢さまには何時でも遊びに来て下さい。何しろ我が家は息子が一人しかおりませんので、若いお嬢さまが遊びに来て下さると家が一気に華やぎますわ」
「ご存知の様に宅は
ちいさな酒屋ですから、娘の躾けも行き届かず恥ずかしいばかりです」
余りの長電話に痺れを切らした浩司がメモ用紙に、
「もう電話は好い加減にしたら、これじやあ何時まで経っても彼女を送って行けなじゃあないか?」
と、書き送った。
次回に続く
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