想い出は風の彼方に(37)

翌日は爽やかな春の青空が戻って来た。しかし昨日の豪雨が祟ってか私は身体が気怠く、目覚まし時計も無意識に切ってそのまま昼近くまで寝込んでしまった。母がそんな私を気にして二階の寝室へ覗き込む様に入って来た。
「どうしたんだい、予備校には行かないのかい。昨日の雨で風邪でも引いたのかね?」
私は慌てて布団から起き上がり目覚まし時計を見た。11時近くになっている。
「大変だ、お母さん。ともかく何か食べさせて。午後からの授業には出るから…」
久しぶりに10時間以上も寝たので、体力はすっかり回復していた。私は掻き込む様に、ご飯を3杯も食べた。後は午後からの教材をバッグに詰め急ぐ様に自宅を出かけた。すると母が大声で私を呼び止めた。
「お前、このお借りした傘はどうするのよ。ちゃんと汚れを洗い流し乾かしておいたのに…このまま放っておいて良いのかい…」
母にそう言われ、私はやっと傘の事を思い出した。幾ら遅刻して慌てていたって、彼女から借りた傘を忘れていくのはどうかしていた。
「それでもね、傘の破損が凄いのよ。破れ箇所も目立つし、お前の所為ではないものの、そのまま黙って返すのも、どうしたもんかね?」
「じゃあどうするのよ…!」
「新しい傘を買って差し上げたら」
「新しい傘を…俺にそんな金はないぜ」
「そりゃそうだろうけど、まあここの所はお母さんが立て替えて上げるよ」
「そこまでする必要があるのかな?」
「困った時に受けたご恩は倍にして返すもんだよ。それが真心を知り抜いた人間のする事だ。昔の人間は皆んなそう云う義理と人情を大切に、どんなに貧しくても心を支え合って生きて来たもんだよ」
「ふ~ん、そんなものなのか」
「それが近頃は皆んな自分の小さな損得勘定ばかりしか考えないから…」
「分かった、分かった、お母さんの言う通りだよ。でも俺はこれから予備校に行かなきゃならないんだ。そんな事より彼女に返す傘のお金をくれないかな。昔の人は皆んな人情味があって偉かった…そんな所で今日の話は終わりにしてくれよ」
「全く、この子といったら親の話はろくに聞かないでお金だけ請求するのかい」
母はそんな風にブツクサ言いながらも1万円札を1枚、私の手に握らせくれた。私は驚いて、
「傘一本に1万円もするのかい?」
「本当に質の良い物を買い求めるなら、それ以上するもんだよ。でも20才前のお嬢さんなら、1万円もあれば十分でしょう」
そんなデリケートな事情を私には知る訳もない。ここは母の助言に従うしかない。ともかく母の好意に甘えて、その1万円札を私は素直に礼を言って受け取った。私は少し焦っていた。1時からの午後の授業に時間が迫っていた。
ともかく自宅から予備校までの途中にあるデパートの女子店員に尋ねて、何とか傘を一本買って急ぎ予備校に向かった。午後の授業の始まる直前にどうにか教室に入ったので、確保出来た座席は最後尾だった。黒板の字は読みにくいし、先生の声も聞きずらかった。
次回に続く
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