想い出は風の彼方に(39)

それ以来、私たちは急速に親しくなり出した。昼食も一緒に食べる事が多くなっていた。志望大学の事、家庭の事情、将来の夢、若い二人には話すべき事が幾らでもあった。彼女の実家は歯医者で、歯学部に行くのが目的で予備校に通っているらしい。私は精神科医になりたいと云う自分の志望動機を偉そに言うには恥じらいを感じていた。ただ何となく医学部を目指していると、お茶を濁した。
あどけない彼女の瞳の前で「フロイトの精神分析論」を語る気にはなれなかった。彼女と親しくなるにつれ私の成績は一気に上昇して行った。彼女への見栄も大きく影響していたのかもしれない。
5月末の模試では300人中28番まで上がって来た。校内掲示板に貼り出された成績表を見て、彼女は自分の事の様に感動の声を上げた。毎週100番までが掲示板に貼り出されるのだ。彼女は87番だった。
何時しか校内模試の後は二人で答え合わせをやる様になっていた。
どちらかと言えば私がリード役で彼女が教わる事が多かった。しかし、この役回りが私の学習意欲をより向上させた。典型的なプラトニック・ラブで、手を握り合う事もなかった。彼女の存在、共に過ごす空間それだけで私の心はいつも満ち溢れていた。
もちろん彼女に性的な魅力を感じていない訳ではなかった。何気なく触れてしまう手の感触にさえ私の心は喜びに震えていた。しかし、それ以上の行為を私が望んだとしたら私達の大切な関係に微妙なヒビが入ってしまうのではないいかとの恐れが頭から、こびりついて離れなかった。
「一般に若い男女の間で、その愛欲が最後の一線を越えてしまうと、そこからは性的関係が中心となって、日々その欲望に敗け互いの精神生活が希薄化してしまう傾向が強くなる」
と、私は何年か前に読んだ哲学書の一文を思い出していたりしていた。また一般に男の性欲は本能的な部分が大きく、女の性欲は情緒的な側面が強いとも言われている。
ともかく当時の私は彼女に心の恋人を求めるだけで、十分に満足していた。この様なプラットニックな関係が私達の学習意欲を向上させ模試の成績も確実に伸びて行った。6月中旬の校内模試で私は300人中17番に、彼女は61番にまで上がって来た。これで私のAクラス入りは決定的となった。
彼女はそのままBクラスに残留となる為、クラスは別々となってしまった。その為に幾らか寂しさは残ったが、そんな事より私のAクラス入りを彼女は心から喜んでくれた。
7月から私は晴れてAクラスの生徒となったが、昼休みなどは出来る限り彼女と一緒に過ごした。帰りも渋谷までは同じ電車で雑談をしたりする事が多かった。渋谷からは京王線に乗り換え吉祥寺の自宅へと彼女は戻ってしまうが寂しさは余り感じなかった。
それよりは一層学習意欲が上がって来た。自分だけではなく彼女も何とかAクラス入りを果たせたいと云う強い願望が心の奥底から湧き上がり、彼女のいない寂しさなどと云う浮ついた感傷に浸っている暇などなかったのである。
愛の本質は、お互いを高める所にあると当時の私は考えていたのだ。
次回に続く
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