想い出は風の彼方に(44)

私と彼女はファミレスで夕食を済ませ新宿署に戻った。小山巡査部長が笑顔で出迎えてくれた。
「今日は本当に大変でしたね。痴漢野郎は留置場に叩き込んでおきましたから安心ですよ」
私は少し驚いて聞き返した。
「あの程度の痴漢行為でも留置場に入れられるのですか?」
「いえね、詳しい事は申し上げられませんが調べて行くと色々な余罪が出て来たんですよ」
「そうなんですか、やはり過去にも悪い事をしているのですね」
「まあ、そんな事です。それはそれとして、お嬢さんには被害届けを出して頂きたいのです。決して外部に漏れたり、ご迷惑をおかけする事は無いですから…」
「分かりました。で、どの様にお書きすれば良いのですか?」
「今回は現行犯逮捕でしたので、大まかに書いて頂ければ良いです。後は私が現場にいましたから補足出来ます。男性の方は目撃証人として、如何に痴漢行為を注意しても止めようとはしなかった…と、お書き下されば結構です。お疲れになりましたでしょう。簡略で構いませんから、後はお帰りになって下さい。本当に大変な日でしたね。お陰で私達は大物の暴力団組織を挙げる事が出来そうなんで、とても感謝しています」
「私達に危害が及ぶ事は無いでしょうか?」
「そんなご心配はありません。市民の安全を守るのが私達の任務ですから…それから、この事で貴方がたを今後ともお呼び立てする事も無いですから、どうか安心して学生の本分に励んで下さい」
そう言って巡査部長は優しく私達を労ってくれた。
私達は、しばらくして警察署を出た。何時の間にか二人の手は握られていた。普段通りに渋谷では別れず吉祥寺の彼女の家まで送っていった。私にとってはかなりの回り道となってしまったが、それが自然の成り行きだった。痴漢行為で受けた彼女の心の傷がそんな簡単に癒される訳はないと思ったのである。だから渋谷駅でも何時もの様に、
「じゃあ、また明日ね!」
と、彼女の方から言う事はなく二人の手は握られたままだった。共に離れがたかった。ぴったりと寄り添い心も身体も一つでいたかったのかもしれない。
吉祥寺からバスで10分程で彼女の家の近くに来た。夜は10時を過ぎていた。それでも二人は別れたくはなかった。家の脇にあるブランコに5分程座っていたが、私の方から彼女に声をかけた。
「なおちゃん、帰ろか?家はすぐそこだ。もう痴漢の心配はないよ」
「そうね、今日は有難う。じゃあ又、明日ね」
そう言ってブランコから立ち上がったが、二人は何時の間にか抱き合っていた。そして不器用な口づけを交わした。もうすぐ二人は二十歳になろうとしていた、これが初めての恋心だったのかもしれない。その後、彼女は脇目もふらず自分の家の中に走る様に去っていった。私一人が取り残された感じであったが、心は甘い匂いで満ち溢れていた。そこから私の自宅までは一時間以上もあったが幸福な感覚に酔いしれていた私には、自分がどう帰ったのかも夢の中だった。
次回続く
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