想い出は風の彼方に(47)

重く熱い刺激が、私の腹部に不意に加わった。血がポタポタと流れ落ちている。その強烈な力の圧力に負け、駅の階段を二転三転しながら私は転がり落ちて行った。その度に私の脇腹に突き刺さったジャックナイフは私の体内で踊り狂った。
20~30段の階段を転がり落ちた所で、私の意識は少しずつ遠のいて行った。男はとっくに逃げてしまったに違いない。私を取り巻く数名の人達が、
「大変だ、人が殺されかかっている。誰か救急車を呼んでくれ!」
と言っている声が微かに聞こえたが、私の耳には殆んど届かなかった。救急車が到着した時には既に私の命は絶えていた。駅の階段は私の血で溢れていた。
      ➖完➖
綾子は、浩司の小説「なおこ」を一気に読み上げてしまった。夏の夜は白々と明けかかっていた。
預かった原稿用紙の束を大きな茶封筒の中に丁寧に戻しながらも、自分の頬に伝わる涙をどうしても抑え切れなかった。感動と言うべきか、強烈なラスト・シーンの壮絶さに打ちのめされたと言うべきか、人の世の不条理を女子高校生の彼女には受け入れ難い精神状況だった。
何故あんなにも愛し合っていた彼等が、こんなにも酷(むご)い別れ方をしなければならないのか?
ひたすら純愛に生き、大学受験直前で無残にも絶たれた若い命…。
綾子の心の中で哀しみと怒りが交錯していた。
そして、この小説を書いたのは浩司その人だ。彼の頭の中はどうなっているのだろう。彼にも限りない好奇心が湧き出した。単に英語の勉強を教えて貰うと云うより、急に異性として彼を意識し始めた。これまでは兄の友達として何となく存在を意識していたが異性を感じる事はなかった。しかし彼が医学部に行き始め、英語の指導を受ける様になってから尊敬の念が出始めた。そして、この小説を読み終えてからは最とそれ以上の存在を意識し始めた。浩司の小説を他にも読んでみたくなった。彼の内面に触れたくなったのだ。
でも現段階では浩司にとって、自分はただの一女子高校生にしか見えていないだろう。異性などと意識しているとは思えない。
それには、もっと勉強して少しでも彼に近い教養を身につけるしかない。小説の中の「なおこ」の様に…
その翌日から綾子は猛烈な勉強を始めた。少なくても浩司に出された宿題は是非とも終わらせたい。
彼から借りた英文法の参考書を幾度ともなく復習し、100問近い例題も10回以上は解き明かした。
1日に10時間ぐらいは机に向かっていただろう。兄も母も驚き呆れた。そんな綾子をこれまで誰も見た事がなかった。夕食の手伝いも全くしない。ともかく英文法の参考書に首引きである。さすがに食事の後片付けだけはした。その後片付けを終えると、直ぐに自分の部屋に戻りまた勉強を始める。二人は浩司さんの影響かもしれないと考え始めた。英文法の参考書の裏に篠木浩司と書かれていたからだ。だからと言って、怒る訳にも行かない。高校生の娘が朝から晩まで夏休みだと云うのに何処にも出かけず、自分の部屋に閉じこもって勉強しているのだ。注意する理由は何処にも見当たらない。
次回に続く
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