想い出は風の彼方に(57)

「そうなの、私もあれから家で5時間以上は寝てしまったから浩司さんに文句は言えないわ」
「仕方がないよ。僕らは一晩中ほとんど寝なかったのだから。昔、読んだシエイクスピアの作品にこんな事が書かれてあったんだ。『恋人たちは隠れて欠伸をする』ってね。
どんなに愛しあったって、人間だから肉体的な疲労は出て来るものさ。でも不思議なもので元気になったら、また君に会いたくなってしまったよ。今日は夜も遅くなるから会えないけど、明日は会えるよね」
「もちろんよ!」
「それじゃあ今夜、会えない代わりに一言だけ…綾子、君が死ぬほど好きだ」
「私もよ…もう一度言って、お願い!」
「綾子、君が死ぬほど好きだ」
「有難う、その言葉だけで明日まで待てるわ」
「駄目だ、君の声を聞いていたら僕が明日まで待てなくなってしまった。今から直ぐ君の家に出掛けるから5分だけでも会ってくれないか?」
「浩ちゃんって、子供みたいね。でも、良いわよ。9時半丁度に家の玄関前で待っているけど、その時間で間に合うかしら?」
「大丈夫、必ず間に合わせる。じゃあ、後でね…」
「うん、待っているわ」
こうして浩司は、急ぎ服を着替えて物も言わずに出掛けた。綾子の家に着いたのは9時28分だった。浩司を見つけると綾子は走り寄って来た。彼は嵐の様な勢いで綾子を突然に抱きしめた。そして、奪う様に唇を押し付けて来た。
「浩ちゃん、もっと優しくして…このままだと湖底(うみのそこ)に沈み込んじゃう」
「ご免ね、君の姿を見たら何もかも忘れてしまうんだ」
「怒ってなんかいないわよ。私だって嬉しいのよ。でも、余りに激しいと何かが一遍に崩れ去ってしまうんじゃないかと、恐い気がするわ。ゆっくりと長く愛されたいの…」
「そうだよね、今のは自分勝手だよね。愛ではなく、ただ欲望を押し付けただけだ。ご免ね、反省しているよ」
「ううん、何も反省なんかする必要はないわ。私だって嬉しいんだから…でも家の前だから誰かに見られたら少し恥ずかしいと思っただけ」
「本当にそうだね、そうなったら君にも迷惑をかけてしまうし…」
「別に迷惑なんて事は何も…私こそ変な事を言って、ご免なさい。浩ちゃんを傷付ける様な事を言ったりして」
「いや、悪いのは僕の方さ。篠木やおばさんに見つかったら、ちょっと会わせる顔が無いもんね。綾ちゃんの言う通りだ、ゆっくりと長く君を愛して行く様に努力する」
「浩ちゃん、そこまで生真面目に考えなくても良いのよ。出来たら誰にも見られない所で、思い切り愛して」
「そうだね、そうする」
「はい、お利口さんです」
「何だか、どっちが年上か分からないね」
「浩ちゃん、恋人同士に年の差なんか無くてよ」
一夜にして綾子は18才と雖(いえど)も、大人の女になっていた。
次回に続く
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